目覚めた女は狂人かBiSHになる—女言葉の一世紀 33-(松沢呉一) -3,300文字-
「高群逸枝が見抜いた「売春婦への同情」」の偽善—女言葉の一世紀 32」の続きです。高群逸枝の『黒い女』については、3月に書いてあったものです。BiSHの曲で「ぼく」ではなく、「おれ」を使っているものがあることに気づいたのもその時です。
おれは奥様だよ
『黒い女』にはこんな文章も出ています。
主人も無口なら婆やも無口だった。一番騒々しいのは、髪の毛のない女だった。
彼女はふた口めにはいふのだった。
「おれは奥様だよ」
これは『黒い女』掲載の「妻」シリーズ第二作で、すでに結婚している「私」が育った故郷の家を述懐しているところに出てくるフレーズです。
「私」は百姓から譲られた子だったようで、主人と髪の毛のない女は夫婦であり、「私」の育ての親。養父は小説家で、婆やがいるくらいで貧しくはなく、教養もあるのでしょうが、それでも養母は「おれ」です。「私」が幼い頃ですから、二十代か三十代か。その若さでなぜ髪の毛がないのかについての記述はありません。
「おれ」は地域的なものでしょうが、場所がどこかは書かれていません。高群逸枝は熊本出身で、この本の中でも、熊本という地名を出している作品があり、田舎の情景、状況は、熊本の風景、体験を重ねているのだろうと想像できます。
都市部では明治に入って、女が「おれ」と自称することは減っていきますが、地域によってはなお現役の用法であり続けました。
現在の「私」の夫もまた小説家で、革命運動をやっているため、この小説では伏字が連発するのですが、「おれ」が出てくるところは伏字にされてなくてよかった。
BiSHの「俺」
ちょうどこれを読んでいる時にBiSHを聴いてまして、このフレーズを見たすぐあと、おそらく一分も経たない時に、「新しい何かが俺の中で目覚めた」というフレーズがはっきり聞こえました。何度かは聴いているはずの曲ですが、この時初めてBiSHが「ボク」だけではなくて、「俺」も使用していることに気づきました。この連続には驚きました。
私の中で高群逸枝とBiSHが重なった瞬間であります。
この曲。
https://www.youtube.com/watch?v=6BFFE7FLE8g
地味目なので今までさほど意識していませんでしたが、いい曲です。「不安だな どこまでゆけるかは 不安と安 それ俺の中にある?」という歌詞もあります。
そうとは言いくいものもありますが、『黒い女』に掲載されている小説群をざっくりまとめると、「女の目覚め」がテーマだと言えます。
舞台になっているのは明治から大正にかけてで、その象徴として「世界」という言葉を覚えて口癖のようにその言葉を使う父親やその仲間たちの話が出ています(「妻」第六作)。これはおそらく明治末期が舞台でしょう。「「花柳界」という言葉の始まり—BuzzFeedの記事を検証する(笑) 2」に書いたように、花柳界という言葉が出てきたのもおそらく明治末期。世界が見えてきた時代であり、それを構成するさまざまな世界も見えてきていた時代。
その時代に、女たちにおいても、「新しい何かが俺の中で目覚めた」ことを高群逸枝は描いている。しかし、それはつねに困難と不安を伴っていますし、社会を見通す視点を獲得し、言葉を獲得し、感情を獲得するがために新たな困難と不安に直面もする。「不安と安」です。「黒い女」というタイトルとは違って、全体を通すトーンは灰色です。
なお、他にもBiSHには「俺」を使っている曲があります。
やっぱりBiSHって、アイドル版銀杏BOYZじゃね。
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