いい妻は退屈—お母さんになった元風俗嬢[2]-[ビバノン循環湯 346] (松沢呉一) -4,053文字-
「ホントに楽しかった日々—お母さんになった元風俗嬢[1]」の続きです。
もう夫がいなくてもいいかな
会って十分か十五分くらいで、彼女は離婚という言葉を口にした。
「離婚の話をするのは早すぎるだろ」
「いやー、もう子どもがいるから、夫がいなくてもいいかって今も時々思ったりするんだよ。子どもを授かったから、結婚したことを後悔はしていないけど、相手は間違ったかなって思う」
結婚して二年も経っていないのに、かつ子どもが産まれたばかりなのに、もう離婚を考えているのか。
「まだ具体的に考えているわけじゃないよ。でも、結婚したら、“この人のことが本当に好きだったわけではない”ってよくわかった。本当に好きだったら、何でも許せるし、何でも我慢できる自信があるけど、ちょっとしたことでも許せないし、我慢できなくなる。自分は毎日のように飲みに行って、女の子とも遊んでいるのに、私は全然遊んでない。自分が遊べているなら、浮気をしようが何をしようが全部気にならないけど、遊べてないから、いちいち腹が立つ」
これはよく聞く話。
「私がこんなことを考えているなんてこともまったく気づいていないのがまたイライラする。自分は仕事もちゃんとやって、家庭のこともちゃんとしているって疑っていないと思う。結婚したら、妻が何を考えているかなんて少しも頭にないんだよね。結婚できて、子どもがいて、そこそこのお金があれば女は満足するって信じているんだよ。子育ては楽しいけど、楽しいだけじゃ済まないってことがわかってない」
たしかに子育ては大変。寝かせてしまえばあとはほっといてもいいのかと思っていたら、一歳にならないうちは寝ている間もずっと抱いてやらないとダメらしい。
「よく赤ちゃんを車に放置して死んじゃったりするでしょ。あれはほっといてもいいタイプの子だから、親もそれをいいことに無責任なことをするんだよ。だから、個人差もあるんだろうけど、うちの子は絶対にダメ。試しにほっといたこともあるんだけど、ずっと泣いている。でも、この時期は抱いてあげていた方があとが楽らしい。愛情が足りないと、大きくなってからその反動が出るって言うから、今はしょうがない」
※Camille Corot「Mother and Child」
最初は自分の子どもが怖かった
子どもが泣き出した。
「ほら、母ちゃんが離婚について語り出したから泣いているよ」
「違うよ。やっと眠くなってきたんだよ」
「よくわかるね」
「子どもが泣くのって、三種類くらいしかないんだよね。ひとつはオッパイが欲しい時。ひとつは抱き方が悪い時。ひとつは眠い時。オシッコとかウンコは黙ってする。だいたいどれかわかるから、今はいいけど、最初のうちはわからなくてイライラしたよ」
「眠いんだったら静かに寝ればいいのにね。オレなんて眠くなると、途端に無口になるよ」
「赤ちゃんのうちは、眠ることの意味がわからないから、意識が遠ざかっていくことが怖いんだって。それに慣れるまでは泣く」
たしかに意味がわからなければ怖いかも。大人になってからでも、時々怖くて寝られなくなることがあるし。
「私も最初はそういうことがわからなかったから自分の子どもが怖かったよ。未知の生き物をどうしたらいいのかわからなくて、ちょっとしたことがあると、すぐに病院に行っていた。育児ノイローゼになる人の気持ちがよくわかる。いざ産んでみたら自分の子どもはかわいいけど、私はもともと子どもが好きってわけじゃなくて、かえってそれがよかったんじゃないかな。思っていたのと違うって失望したりはせずに、すごく自分の子どもを冷静に見ている。最初から自分が子育てに向いているとは思ってないから、わからないことがあるとすぐ人に聞いたり、本を調べたり。そうやっていくうちに、自分の思い通りにしようとしちゃいけないことがわかってくる。子どもに合わせればいいんだよね。そうすると、イライラがなくなってこっちも楽になる」
彼女が言っていた通り、やがて子どもは静かになって、寝てしまった。やっとこれで彼女はごはんが食べられるが、子どもは抱いたままだ。これではとてもカラオケはできない。
「歌えないし、歌ったら起きちゃうよ。一歳くらいになったら、親とか友だちに預けられるけど、今はまだ怖い」
風俗嬢時代、彼女とは何度かカラオケに行っている。彼女はムチャクチャ歌がうまい。今日は久々に彼女の歌を聴けると思ったのに残念。
それでも子どもが寝ると楽になるみたいで、やっと彼女は冷めた料理を食べ始めた。
※「Terracotta statuette of a woman holding a baby」
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