松沢呉一のビバノン・ライフ

ゲシュタポのスパイだったモーリス・サックス—ビラがつないだミュンヘンとハンブルク[1]-(松沢呉一)

斜体のかかった人名は「白バラ・リスト」に項目がありますので、詳しくはそちらを参照のこと

 

 

 

ミュンヘンからハンブルクへ移動する人とビラ

 

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白バラリスト」を見ていただくと、当時の学生は大学を移動していることが多いことに気づくかと思います。ヴィリー・グラーフはボン大学からミュンヘン大学に移動していて、アレクサンダー・シュモレルはハンブルク大学からミュンヘン大学へ。トラウテ・ラフレンツはハンブルク大学からベルリン大学に移り、さらにミュンヘン大学へ。

遅れて処刑されたハンス・ライペルトもハンブルク大学からミュンヘン大学に移動。彼の場合はユダヤ系だったため、大学に居づらくなり、積極的にユダヤ人学生を受け入れていたノーベル賞化学者のハインリヒ・ヴィーラントの研究所への移動です。

彼の恋人だったマリー・ルイーゼ・ヤーンはミュンヘン大学で化学を専攻したあと、テューピンゲン大学で医学を学んでます。彼女の場合は戦争が終わってからなので、また事情が違いますけど。

学生会社が介在して編入などをスムーズに行っていたのかとも思ったのですが、学生会社はエリア単位なので、たぶんそこまではやっていない。よくヨーロッパでは、一度社会人になってから大学に入り直す人が多いという話があって、大学に入る姿勢や条件が画一的ではないことと関係しているのかもしれないし、別の学校で単位をとることができたのかもしれないですが、このことが都市と都市との間をつなげています。

白バラのビラについて言うと、トラウテ・ラフレンツハンス・ライペルトがその役割を果たしています。ミュンヘンとハンブルクをビラでつないだ。そのために逮捕者が拡大したわけですが。

このポストカードは1940年代とありますが、おそらくもっとあと。ハンブルクの飾り窓エリアでしょう。着色しました

 

 

フランス人モーリス・サックスが破壊したハンブルク・グループ

 

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白バラ・リストにハンブルク・グループのことはだいたい書いておきましたが、あっちは人単位なので、わかりにくいかもしれず、改めて説明をしておきます。

白バラと連携したハンブルクの人たちは「白バラ・ハンブルク」(Weiße Rose Hamburg)と呼ばれています。名称がなかっために戦後こう呼ばれるようになっただけです。「ハンブルク支部」という言い方もなされていて、これだとミュンヘンに本部があり、ハンブルクはその傘下にあったと誤解されそうだし、確固とした組織があったようにとらえられて、実情とずれるので、ここでは「ハンブルク・グループ」とします。

ハンブルク・グループにはさまざまなグループが参加、あるいはさまざまなグルーブに参加する個人がこちらにも参加していました。確固とした組織というよりゆるいネットワークです。

医師や医療助手たちの反ナチス・グループder candidates of humanityは英人の医師たちから始まったものです。一方で抵抗運動に入り込んだゲシュタポのスパイだったモーリス・サックスはフランス人です。外国籍の人たちが入り乱れていたのは港街ハンブルクらしい。

たまたま最近そういう話を若い世代に教えてましたが、日本でも公安のスパイは公安自身がやることはほとんどなくて、すでに活動に参加しているヤツに目をつける。生活に困っているヤツに一万円なり二万円なりの謝礼を払うか、弱味を握ってそれで脅して報告させた方が効率がいいし、疑われにくい。

このモーリス・サックスもゲシュタポに自身が逮捕されて、スパイに仕立てられたと言われています。彼は同性愛者なので、いつでも強制収容所に送り込めます。それが脅しになったのかも。そういう法律はいらんです。

※モーリス・サックスの評伝André du Dognon et Philippe Monceau 著『Le dernier sabbat de Maurice Sachs』。困った人間であると同時に面白い人間でもあって、この人には興味津々。

 

 

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