松沢呉一のビバノン・ライフ

経験者が語る抵抗運動の知恵—ビラがつないだミュンヘンとハンブルク[5](最終回)-(松沢呉一)

どうしていいのか見当がつかなかったとカール・シュナイダー—ビラがつないだミュンヘンとハンブルク[4]」の続きです。

斜体のかかった人名は「白バラ・リスト」に項目がありますので、詳しくはそちらを参照のこと

 

 

 

対立するふたつの方向

 

vivanon_sentenceカール・シュナイダーはこう言っています。

 

一つのグループが少し大きくなると、ゲシュタポはすでにその存在を察知していました。ゲシュタポが嗅ぎつけるのにほんの数ヶ月しかかかりませんでした。抵抗運動はごく小さな規模で組織された場合のみうまくいきました。一番うまくいったのはたったの二人の場合で、だれにも悟られずに政治活動ができました。

 

一人だとチェックが働かず、精神的、物理的支えも必要。しかし、増えれば増えるほどリスクが高くなります。

一方ではこうも言ってます。

 

我々は軍部だけでなく党においても重要な地位にいる人が非常に懐疑的であるのを知ってました。彼らは事態がこのまま進めば恐ろしいことになるという認識もすでに浸透していました。そして戦争が進むにつれ連絡可能な人々の層が一月毎に大きくなっていきました。

我々は自分たちで直接的な大衆運動を引き起こせるとは思っていませんでした。しかし何か思いがけないことが生じた場合に、それを起こせるだけの土台を準備しておこうとしたのです。そうすれば抵抗運動が突発するかもしれなかったからです。この判断を今日でも私は支持しています。七月二十日はそのような事態が起こりえた出来事でした。

 

1944年7月20日は国軍によるヒトラー暗殺計画実施の日です。

「捕まらないためには少人数でやるしかない。理想は2人」「何ができるのかわからないけど、いざという時のために準備はしておき、広い範囲でネットワークを作っておく」というふたつの方向は完全に対立します。同時にはできないのです。

 

 

拡散系グループがやるべきことではなかった

 

vivanon_sentenceスパイであるモーリス・サックスに情報をつかまれていたこともカール・シュナイダーは語ってますし、処刑されたハンス・ライペルトは勇気があったけれど、不用心で、ゲシュタポに嗅ぎ付けられた上に、家に証拠書類を置いていたために一網打尽になったと語っています。このふたつの理由でハンブルク・グループは多くの逮捕者を出して壊滅しました。

ふたつの要因で危険を招くような腰つきの甘いグループはリスクのあることをやってはいけなかったのです。白バラも同じです。規律も何もなく、セックスしただけのつながりでナチス支持者を会議に呼ぶハンス・ショルがリーダーのグループはビラまきなんてリスクの高い行動をしてはいけない。

ハンブルク・グループにビラを持ち込んだハンス・ライペルトを責めるのは酷ではあって、彼はユダヤ系ですから、いつ殺されてもいいとの覚悟のもと、必死だったのだと思います。それでも、自身の問題ではなくなるので、彼はハンブルク・グループと切り離して同士を見つけて、少人数の閉鎖系で行動すべきでした。

ミリヤム・ダフィットという化学者がいました。ミュンヘン大学のハインリッヒ・ヴィーラントの化学物理研究所で働いてました。ハインリッヒ・ヴィーラントはノーベル化学賞を受賞した人物で、その気になれば亡命することもできたでしょうけど、ドイツに居続け、ユダヤ人を積極的に受け入れました。ヴィーラントは毒ガスの研究もしていたので、ナチスにとっては欠くべからざる人物であり、それらは大目に見られていました。ハンス・ライペルトもその一人でした。

ハンス・ライペルトは、ミリヤム・ダフィットにもビラを見せていて、ミリヤム・ダフィットは一瞥して、まずいと思ったららしく、ビラを返しています。しかし、彼女も連行されます。彼女は報告義務違反で懲役二年の判決をくらい、戦後もそのダメージが残り、化学者の道を諦めています。生き残ったからよかったとは言えず、ゲシュタポの尋問、拷問を受け、長期拘留されると人間が壊れて、人生が変わってしまいます。

 

 

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