松沢呉一のビバノン・ライフ

虚像としてのヒトラーは生き続ける—人間が悪魔化するとき[中]-(松沢呉一)

ヒトラーおじちゃんとローザちゃん—人間が悪魔化するとき[上]」の続きです。

 

 

 

普通のおっさんたちがやらかしたと知ることの怖さ

 

vivanon_sentence前回見たように、ヒトラーは大笑いすることもあるし、子どもや犬が好きな普通のおっさんの側面もありました。一方で、精神異常だの人格障害だのとする説は生前から今に至るまであります。たしかに相当におかしなところがあって、つきあいにくい人物だったように思えます。

「ヒトラーとつきあえるかどうか」なんて考えなくてもいいわけですが、ついそういうことを考えてしまって、「無理」って結論になります。

しかし、そう思えるのは、ヒトラー自らが作り出したイメージに影響されている部分も少なくなくて、「ヒトラー神格化」に巻き込まれているかもしれない。ここまで見てきたようにヒトラーは自己演出に長けてました。自分を大きく見せ、人々をその気にさせる才能に長けてましたし、そのための工夫もしていました。演説の振り付けまで練習していたわけです。

それが功を奏して、あの時代は「一人の超人的救世主が現れた」との熱狂を生んだのが、戦後は「一人の狂人がやらかした」になった。特別な存在の特別さの方向が逆転しただけではないかとの疑いがあります。そこから早く抜け出して等身大のヒトラーを語った方がいいのではなかろうか。

権力指向の強い人間はしばしば二重規範を駆使します。たいていの独裁者は国民には贅沢を諌めながら自身は贅沢三昧、国民には禁欲を強いて自身は欲望を満足させるってもんです。

権力を持つのはたいてい男ですから、男のその性質は顕在化しやすいですけど、そこまでの権力はないにせよ、日本でも女流教育家たちは「女は社会進出すべきではない」としながら、自身は学校を経営し、講演をやり、執筆活動に勤しむ。東京女子医大の創立者・吉岡彌生は女も前線へと煽りながら、自分は疎開する矯風会の初代会頭・矢島楫子は一夫一婦を説きながら、自分は不倫

ヒトラーはあれだけ民族的繁栄を謳いあげながらも自身は子どもがいないのもまた矛盾であり(いたという説もありますが、信用にたる根拠はない)、女の特性は母性にあるのだとしながら子どもがいなかったエレン・ケイも同様。自分はその辺の凡人とは違う選ばれし者と思えていて、人によってはそのことが、自身は権力者に相応しいという確信につながっていきます。

男であれ、女であれ、そういうタイプとつきあう時は要注意。

Ansichtskarte 3. Reich – Adolf Hitler mit Mädchen

 

 

ヒトラーの人心掌握術

 

vivanon_sentence煙草も酒も肉食もしなかったヒトラーはそれを国民に積極的に強いることをしていないのは独裁者らしからぬ慎重さです。

ここもヒトラー自らが作り出した独裁者イメージに幻惑されているかもしれないのですが、よくよく見ていくと、ヒトラーは案外慎重で優柔不断です。計算だった可能性もあるし、もともとの性格だった可能性もありそうです。

ヒトラーは社会ダーウィニズムの影響を強く受けていて、それが優生思想にもつながっていくわけですが、人種、民族、国民といった大きな枠組みだけでなく、小さな集団でもこれが成立すると信じていました。そのため、内部での競争を推奨していて、生き残ったものが強い能力があるのだと考えてました。

対立が起きた時に、その上位に君臨する自分の力がさらに増すという考え方もあってか、内部の意見対立をヒトラーは放置する。あるいは意図的に対立を作り出します。

対立する者たちは、最後はヒトラーが解決してくれるのだし、自分を守ってくれるだろうと期待する。その期待を裏切らないためには、ヒトラーは決断をしない方がいい。対立する者たちや観衆が結論を出すまで待ち、勝者の結論を受け入れるというのがヒトラーのやり方だったように見えます。「長いナイフの夜」がその典型です。

その辺の人の使い方はヒトラーはうまくて、抗争に破れて組織を離れた人間、ミスによって追い出された人間を、ほとぼりが冷めたところで呼び戻すということをよくやっています。ゲッベルスもゲーリングもレームもそうです。このやり方はヒムラーも継承していて、ハイドリヒやルドルフ・ヘスを重用しています。

これがあるので、排除された人間も怨んで敵に寝返ることがない。呼び戻されることを耐えて待つ。

こういった掌握術に基づいていたため、ヒトラーは白黒はっきりさせるのは、敵であるユダヤやマルキストたちへの憎悪に基づいたものであって、内部に対しては優柔不断に見えるのです。

 

 

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