マゾヒズムがなかったら人類は滅びていた—『マゾヒストたち』(4)-(松沢呉一)
「クラッシュ系はマゾ心理を純化したもの—『マゾヒストたち』(3)」の続きです。
※このシリーズは全体の流れや構成を考えて始めたわけではないので、話があちこちに飛びます。ご了承ください。
性の指南書を見分ける基準
性の指南書の類いでは、しばしば「正しいセックスを自分は知っている。世の中にある性の情報は間違っている」という前提で論を進めていくのが王道のパターンです。そういう本を読む人たちは自身の性に不安を抱いていることが多いので、この論法は有効です。「薄毛にお悩みの方、今までの方法はすべて間違っていたのです」と育毛剤を売る手法と同じです。
しかし、その育毛剤はまたしても効かない人が多いのだし、そういった論法のダイエット法はまたしても効かない人が多いものです。不安につけこむのは売り方として正しいってだけ。
たしかに間違っている知識はあるでしょう。「キスだけでHIVは感染する」「キスだけで妊娠する」みたいな。
また、大前提として合意のないことをすることは近代社会のルールとしては間違ってますけど、しばしばこういう指南書では、「事実として間違っている」「科学として間違っている」「統計的に間違っている」「相手との関係として間違っている」と否定しているのではなくて、自分勝手な基準で「間違っている」としています。
それこそ「愛があるセックスが正しい」みたいなものです。明治時代の霊肉一致思想です。その時代から一世紀経っているのですから、もうちょっと多様性を認めましょうよ。
愛がないからこそ、それだけを取り出して、いいセックスが可能になることがあります。英チャンネル4の「Naked Attraction」が説明していたように、複数の人を愛せる人もいます。また、挿入行為がなく、愛と信頼関係に基づいた至上の喜びを得られるSMこそが正しいセックスとすることも可能です。
前々回も書いたように、種族保存本能からずれたところでセックスをするようになった人間のセックスには普遍的正しさなんてあるはずがない。個別の人にとっての正しさしかなく、それらはすべて正しいとすることが正しくて、それを前提としていない性の指南書は信用しない方がいい。
※Koninklijke Bibliotheek, KB 74 G 37, detail of f. 83r. Book of Hours of Simon de Varie. Paris, 1455.
マゾヒズムとは?
といった話は以前から何度も書いているので、この辺にしておきます。
何を性的興奮につなげられるのかは人それぞれであって、山頂で欲情する人たちも実際にいるわけです。芸人の元氣安がそうです。
山頂で下界を見下ろしたり、遠くの山々を眺めたりすると気持ちいですよね。あの気持ちよさを性的な快楽に転ずることができる人たちがいて、人知れず勃起しています。濡らしている人もたぶんいます。
元氣安は山頂を見るとウズウズしてきて、我慢できずに山頂に登ってオナニーします。彼はギャグで言っているのではありません。本気なのです。
彼は猫のおなかを触っていても気持ちがよくて勃起します。これも実話です。私らが指摘するまで、本人はそれを変わったことと認識してませんでした。誰もがそうだと思っていたらしい。
それでも、これはまだわかるじゃないですか。全然わからないかもしれないですけど、「快」というカテゴリーの中にあることですから、「性器をこすり合わせること」も「山頂で遠くの山々を眺めること」も「猫のおなか」も同類です。その中で、通常、「性的ではない気持ちよさ」が「性的な気持ちよさ」に転ずる、あるいは両者が混在しているってことです。
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