松沢呉一のビバノン・ライフ

赤門前の大陰嚢とフィラリア—ベルツ花子の見た日本とドイツ[3]-(松沢呉一)

毒婦・花井お梅とベルツの接点—ベルツ花子の見た日本とドイツ[2]」の続きです。

 

 

浦島太郎になったお梅

 

vivanon_sentenceお梅本人が語る事件の真相と刑務所に対する告発」で取り上げた浅井政光編花井お梅懺悔譚』で、市ヶ谷牢獄に16年いて、恩赦でシャバに出てきたお梅は、世界が一変したことに驚いたと語っています。

たしかにこの時代の16年間は大きい。自動車は走っているし、自転車は走っているし、電話ってものがあるらしいし。明治30年代だとまだ電話は広く普及はしていなかったため、人からどういうものか話に聞いているだけで、まだ使ったことはなくて、興味津々のようです。

また、ムショに入る前はガス灯だったのが電灯になって、その明るさにも驚いています。この頃の電灯は薄暗かったかと思いますが、それでもお梅にとっては昼のような明るさです。

今の時代も、16年間ムショに入ってシャバに出てきたら、「道を歩きながら電話をしているのに驚いた」とか、「インターネットってもんが普及していて驚いた」ってことはあるかもしれないけれど、今は刑務所内でも情報は得られるわけですから、お梅ほどの衝撃は受けないでしょう。

その当時でも新入りが外の様子を教えてくれますが、なにしろお梅は反抗的だったため、独房暮らしが長かったのです。

このように、明治時代はめまぐるしく社会が変化していきました。欧洲大戦当時の独逸』が出たのは昭和8年。その頃に明治前半を振り返る本書を読むと、「昔の東京はこんなんだったのか」と驚いたかもしれない。

※大陰嚢の手術。左の看護婦さんの優しい右手が好き

 

 

赤門前の大陰嚢

 

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本郷にお雇外国人の官舎があって、フェノロサやベルツもそこに住んでいたのですが、相当に広い敷地だったようで、そこにはキツネやキジが住んでいて、飼猫の餌を狙って、キツネと猫とが喧嘩をし、家の中にはたびたびヘビが現れていたそうです。今も本郷にはヘビがいますけど。

東大赤門の前に住まっている人は、大陰嚢の持ち主で、それを晒して投げ銭をもらっていました。サイズが書かれていないですが、大陰嚢は大きいものだと1メートルくらいになります。

東大医学部では、研究材料になるので、無料で治療してやろうということになって、その人物に話を持ちかけたのですが、本人は同意しません。たびたび話を持ちかけたのですが、何度目かには「私の稼業道具を直して仕舞はれては、此の後何をして生活(くら)して行かれますか」と怒鳴りました。

これがオチで、医学の話というより笑い話として書かれています。

やがて飽きられて投げ銭が少なくなり、行方知れずになったそうです。しかし、大陰嚢をぶら下げてそう遠くはいけない。強制入院させられた可能性もありますが、それがどこの病院であれ、もしそうだったら東大医学部もそのことを聞き及ぶでしょう。風紀上の法律が厳しくなっていきますから、そちらでしょっぴかれたのかもしれない。だとしても医療機関に回されそうで、亡くなったのかも。

 

 

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