ホロコーストを比喩に使うことを批判する矮小化論は現実の矮小化である—ポストコロナのプロテスト[73]-(松沢呉一)
「比喩表現を否定するドイツの暴論—ポストコロナのプロテスト[72]」の続きです。
比喩が矮小化であることを説明する論理が欠落している
以上のことから、ナチスやアウシュヴィッツ、ホロコーストなどを比喩として使ってはならないケースを改めて整理すると、以下の条件に該当する場合のみではなかろうか。
「ホロコーストはなかった論」を前提にして、「これでは仮想のホロコーストが現実になってしまう」とか、アンネの日記が偽造であることを前提にして、「実在しないアンネ・フランクのよう」といった意味を込めている場合
他にもあるかもしれないですが、私には考えつかない。ハノーファーの件は報じられている限り、これには該当しない。アンネ・フランクの件も該当しない。
しかし、ロックダウンや規制を現にたいしたことがないと感じている人たちにとっては「今起きていることがたいしたことではない以上、ホロコーストはたいしたことではないと主張している」と感じられるのかと思います。バイアスかかりすぎで冷静な判断ができなくなっています。
これは評価の違いです。現にロックダウンやマスクの義務化によって死んでいる人たちはたくさんいます。紛争の類いは計算が難しいので外すとして、プロテストによる死者や餓死、自殺、犯罪増加による死者、他の病気の死者の一部(ロックダウンをしてもしなくてもコロナウイルスの拡大によってどうしても死ぬ人たちもいるので、一部とします)までをカウントすればすでに世界で軽く万に達する人々が死んでいます。ワクチンができたところで、元通りにはならず、この先まだまだ死んでいきます。
そのことが見えない人たちは、自分の周りしか視野が広がらなくなっているのではないか。ワイドショーばっかり観ているからそうなる。ドイツにワイドショーがあるかどうか知らないですが。
※2020年1月26日付「Hannoversche Allgemeine」 これも前回の記事と同じように、若い世代がホロコーストに無知になっていることの原因を考えた記事。この中で、若い世代は歴史に興味がないわけではないことが指摘されていて、知る機会がないのだと言ってます。知る機会を奪ってますから。
ドイツ人はおかしくなってないか?
メルケル首相が演説でも言っていたように、多くの国が本来やってはならないロックダウンをやったわけです。
「やむを得ないこと」と言い張るために、パンデミックをしばしば戦争に喩える人たちがいました。この比喩は許されるらしいですが、私はちょっとした違和感がありました。戦争は国家が決定して起きるものであって、中国の隠蔽体質が拡散に寄与したにせよ、自然災害に近いウイルスをそれと並べるのはどうかってことです。
これだと中国が世界に仕掛けたもの、WHOや製薬会社が仕掛けたものといったプランデミック派の主張をなぞりはしないか?
パンデミックが戦争につながる可能性は多くの人が指摘している通りで、核戦争につながる可能性までが議論されています。パンデミックが戦争だと言っているのではなく、その契機になり得るという話であり、私自身、この危惧があって、たびたび指摘してきました。ウイルス自体ではなく、その対策こそが戦争につながり得るのであり、これを戦時のホロコーストになぞらえると途端に叩かれる。
しかし、「パンデミックは戦争だ」という表現はメタファーであって、やはりイコールではない。緊急事態であり、個人の自由や権利が制限されてもやむを得ない事態であることの表現であることは理解できますから、私も批判まではしない。この表現は批判しないですが、このような表現でごり押しされたロックダウンは批判しますし、その批判においてホロコーストを比喩として使うことは擁護します。
※2020年8月1日付「西日本新聞」 パンデミックによって核軍縮の動きが停滞するに至り、これが核戦争への道筋になるのかどうかを長崎大核兵器廃絶研究センターと韓国、米国の研究機関で国際プロジェクトをスタートさせるという内容。こういうことから目を背けている人たちが矮小化なんてことを言っているのだと思います。
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