松沢呉一のビバノン・ライフ

トラブルから始まった—死して初めて書く宅八郎との出会い[中]-(松沢呉一)

あるところまでの関係とあるところ以降の関係—死して初めて書く宅八郎との出会い[上]」の続きです。

 

 

 

 

そんなに会っていなかったのか?

 

vivanon_sentence疎遠になって以降の宅八郎のことは知ろうともしていなかったため、まるで知らなかったのは当然として、懇意だった時のことも99パーセントくらい記憶が消えていて、自分の消去能力に感心します。

知っていることより知らないことが好きな私は、知らない宅八郎のことを知ろうとして、自分の記憶を懸命に辿ったのですが、全然思い出せない。電話で話すことが多かっただけじゃなく、「ごはん、食べに行かない?」といった誘いもよくあったように思うのですが、これも具体的な記憶が伴わない。

彼はいつも車で移動なので、カマロだかなんだかで迎えに来てくれて、どこかに行くことがあったはずで、彼は運転があるし、私は酒を飲まないため、遠くても「おいしいものを食べられる店」に行くことになり、こういう行動は夜遅くになるため、店は限られます。

その当時、よく使っていた、深夜やっている中華料理屋、インド料理屋などをひとつひとつ思い出してみたのですが、一緒に行ったことがあった気がしない。

唯一、外苑前にあったイタリア料理店だけはすぐ脇に車を停めて(深夜だと停められた)スパゲティを食ったことがあったように思えますが、はっきりとはしません。

会ってないはずはないと思うのですが、同時期に連載をやっていたSPA!の編集部で会った記憶もない。

電話でよく話していたので、よく会っていた気がしているだけで、そんなに会ったことはなかったのではないかとの疑惑も出てきています。

当時は日記をしっかりつけていたので、残っていたら確認できますが、わかったところでどうなるものでもなく、読み直すのも面倒なので、このまま電話の関係だけが突出した人でもいいか。

下半身活動については、私以外の人に語っていない話もありそうですので、そこまで記録していたら暴露しないではないけど、やはり読み直すのが面倒です。亡くなって急に思い出そうとしてますが、原則興味のない人のまま亡くなりましたから。

※宅八郎は料理を作るのが好きという話は本人から聞いたことがあって、これはブログに出していた手製のレンズ豆のスープ。

 

 

音楽業界時代の出来事

 

vivanon_sentence昨日は早朝から宅八郎のことを考えるともなく考えていて、ひとつだけはっきりと思い出せたことがあります。最初の出会いです。

1984年のことです。当時私は外タレの招聘会社であるSMASHにいました。今もやっているのかどうか知らないですが、外タレの招聘以外に、国内アーティストのコンサート制作をやっていて、私はそれらをひっくるめたプロモーション担当でした。

その日の会場は六本木のインクスティックでした。出演者はショコラータだったんじゃなかろうか。所属事務所はTRAですが、SMASHがコンサートの制作を担当してました。

この辺の記憶もはっきりと残っているわけではなくて、可能性を潰していくと、六本木インクくらいしかなく、国内アーティストで私がプロモーションを担当していたのはショコラータくらいしか考えにくいのです。

 

 

 

 

この撮影現場には差し入れを持って行きました。たしか恵比寿にあったミック板谷のスタジオじゃなかったかな。この映像だけじゃなく、レコードジャケットも宣伝物もミック板谷が担当です。

 

 

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