松沢呉一のビバノン・ライフ

ヒトラー・ユダヤ人説/ヤリチン説—ナチスはなぜ売春婦を抹殺しようとしたのか[ボツ編1]-(松沢呉一)

ナチス・シリーズのユニット「ナチスはなぜ売春婦を抹殺しようとしたのか」は、ああでもないこうでもないと奮闘を続ける予定で書きだしたのですが、あっさり答えが見つかって4回で終わってしまいました。「ああでもない、こうでもない」という過程として、ヒトラーの下半身事情も書いてあったのですが、「答えが出てしまったので、もういいや」とボツにしました。最後に書いているように、俗な興味としては面白いのですが、ナチスという現象を知るために不可欠な検討というわけではなく、むしろ邪魔でもあるので、わざわざこれだけ出す必要はないだろうと思ってのボツです。しかし、すでにナチス・シリーズはヒトラー個人への興味ではないところに進んでいるため、息抜きとしてボツ復活シリーズで出しておきます。

 

 

ヒトラーの家族関係

 

vivanon_sentenceヒトラーの謎はいろいろあるのですが、下半身はその筆頭でありましょう。モテモテですから、その気になれば相手には困らなかったはずですが、実際にどうしていたのかよくわからない。

父親がまた尋常ではなく、何度読んでも関係が複雑すぎて理解できない。

父親のアロイス・ヒトラーは1837年に私生児として生まれます。母親はマリア・アンナ・シックルグルーバー。アロイスも生まれてから長らくシックルグルーバー姓でした。

1842年、マリアはヨハン・ゲオルク・ヒードラーと結婚し、アロイスはヨハンの弟であるヨハン・ネーポムク・ヒードラーに引き取られます。アロイスはヨハン・ネーポムクが実の父親だったとの説も有力ですし、ヨハン・ゲオルクが実の父親という説もあり、この2人以外にユダヤ人の男の子どもだとの説もあり、これがヒトラーはユダヤ人だったとの説になっています。

1873年、アロイス・ヒトラーは36歳でアンナ・グラスル・ヘーラー結婚します。39歳でヨハン・ゲオルクとマリア・アンナとの嫡出子として届けられ、姓をシックルグルーバーからヒトラーにしています。シックルグルーバーは長いので面倒というのはわかるとして、ヒドラーでなくヒトラーへの変更理由は今も不明らしい。

妻のアンナは14歳年上で病気がちだったため、ヨハン・ネーポムクの孫であるクララ・ペルツルが家に住み込んで看病をします。アロイスにとっては姪です。血はつながっていない可能性もつながっている可能性もあります。

1880年にアロイスは妻と別居しますが、カトリックの規定で離婚はできず、19歳のフランツィスカ“ファンニ”マツェルスベルガー(ファンニは愛称のよう)と同居、ファンニは最初の子どもを出産(アロイスは結婚前に子どもをよそで作っている)。

1883年に妻が死去し、翌年、ファンニと結婚届けを出して、2人目の子どもを出産。これがヒトラーが唯一愛した女とされるゲリ・ラウバルの母親アンゲラです。そののちにファンニは体を壊して、静養のために別居し、クララ・ベルツルが子どもの世話をします。

1884年、ファンニ死亡。クララはすぐに妊娠し、翌年、一人目の子どもを出産。翌年、二人目を出産、さらに翌年アドルフ誕生(1897)。

腹いっぱい。

Little Adolf with dad Alois アロイスとアドルフ。父親もおそらく髪の毛は黒です。

 

 

6人中4人が早逝

 

vivanon_sentenceアロイスとクララの間には6人の子どもが生まれますが、アドルフと末の娘のパウラ以外は早逝しています。近親婚のため、体の弱い子が多くなったとの説もありますが、もともとこの一族に病気になりやすい因子が潜在していたなどの理由がない限り、そんな簡単には表面化しないのではなかろうか。あるいは狭い範囲でずっと近親婚が繰り返されてきたのかもしれないけれど。

パウラは戦争末期にはヒトラーの別荘ベルクホーフのあるベルヒテスガーデンにいて、兄とは会っていたらしいのですが、自分の身元を知られたがらなかったヒトラーは彼女を表に出すことはほとんどなかったようです。

 

 

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