松沢呉一のビバノン・ライフ

ビリー・アイリッシュの唇、チャルガの唇、デスボイスの唇—唇が物語る[1]-(松沢呉一)

ケルリのセクシー表現は誰に向けているのか—ヴィルジニー・デパント著『キングコング・セオリー』[追加編 1]」の続きですが、「1980年代以降、女が自分の存在をセクシーに見せていくようになったのはなぜか」という疑問から離れていくので、「ヴィルジニー・デパント著『キングコング・セオリー』」シリーズから独立させました。

このシリーズはデータをとっているわけではないので、むちゃくちゃアバウトです。そういうものとしてお読みください。

 

 

 

歌手における口紅史

 

vivanon_sentence議員が唇を赤くして性的アピールをしながら、他者の性的アピールを潰したがる理由—ヴィルジニー・デパント著『キングコング・セオリー』[7]」に書いた「1980年代以降、女が自分の存在をセクシーに見せていくようになったのはなぜか」という疑問について、「ケルリのセクシー表現は誰に向けているのか—ヴィルジニー・デパント著『キングコング・セオリー』[追加編 1]」で確認したのは、「脚を出し、ヘソを出すセクシーな表現は、必ずしも男に向けたものではない」ってことです。むしろ社会が望ましいとする女の性のありようを否定するためになされる可能性があります。つまりはあばずれ的性表現と言えます。

あばずれ的性表現に呼応する男もいるでしょうが、それをもってその表現を潰すと、「望ましき女」という枠の中から女の表現は出られなくなります。いまなお良妻賢母的価値観が支配しているこの社会で「望ましき女」とはどういうものか容易に想像できましょう。

私はあばずれ表現にこそ、個を確立しようとする意思を見出し、しばしばフェミニズムに通じる奮闘として肯定したくなるのですが、道徳派の人たちはどれもこれも一律に性表現として規制したがる。全国フェミニスト議員連盟が、スカートの短さ、脚や腹の露出、胸の揺れで、性的対象のアピールだと見なしたのがその典型。どうしたらこんなに薄っぺらな見方ができるのやら。基準が道徳だからですね。

そういう鈍感な人々は無視するとして、特別に男の視線を意識するわけではない表現においては、セクシーとは言えても唇を赤くしない傾向がありそうです。ケルリがたまたまそうなのかもしれないですが、ここ四半世紀ほどのMVを観ていると、世界的に唇を赤くしないケースが増えているように思います。

 

たとえばビリー・アイリッシュは口紅をつけていると思われるMVもありつつ、つけていないように見えるものの方が多い印象です。

 

 

乳の谷間も脚も見せてますが、これが公然と出してはいけない性的アピールに見える人は頭おかしいでしょ。

MVやステージだけでなく、インタビューを見てもこの辺のミュージシャンたちは口紅をつけていないことの方が多そうです。ただし、パーティのような場で赤くしていることはあります。パーティはセックスの相手を探す場でもありますから。

すべてがそうだとは言えないですが、ヘソを出すより、赤い唇ははるかに生々しい性的アピールだと思います。

 

 

チャルガの唇

 

vivanon_sentenceもうひとつ、赤い唇の意味をよく見せてくれる最新曲です。

 

 

 

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