沖縄を差別し続ける日本政府 沖縄に甘え続ける「本土」
■基地問題は沖縄にとって生活と命の問題
遠足は山登りだった。担任の先生を先頭に、子どもたちが山道を歩く。みんな楽しそうだ。ただ一人を除いては──。
最後尾は、からだの小さな“沖縄さん“だった。沖縄さんだけが苦しげな表情で歩いている。実は、両手に山ほどの荷物を抱えていた。虫よけのスプレー、熊対策の鈴など、クラス全員の分を沖縄さんが持たされていたのだ。
「みんなのために、あなたが持ってあげて」。先生は沖縄さんに命じていた。
でも、もう限界だ。重たくて仕方がない。沖縄さんは「みんなで分け合ってくれませんか」とお願いした。すると、途端に罵声が飛んできた。
「先生の言うことを守らないのはおかしい」「反抗するなんて生意気だ」
なかには「お金をあげるから我慢しなよ」と言う者までいた。
ならばせめて──右腕からこぼれ落ちそうなリュックだけでも、誰か、持ってもらえないだろうか。沖縄さんはそう訴えたが、誰ひとりとして振り返る者はいない。
つらそうに歩く沖縄さんに、ようやく先生が声をかけた。
「右腕がつらいならば、左腕に持ち替えなさい」
米軍基地の過重負担について、沖縄ではこうした例え話が使われることが多い。
国土のわずか0.6%の面積しか持たない沖縄に、全国の米軍専用施設の7割が集中している。どう考えても偏りすぎだ。しかもいま、普天間飛行場の「危険性」を理由に、辺野古に新たな基地がつくられようとしている。普天間返還の明確な約束が得られないままに、である。これでは「右腕から左腕への持ち替え」に過ぎない。
前述の例え話を教えてくれたのは、沖縄県紙『沖縄タイムス』で基地問題を取材している(通称“基地担“)の福元大輔記者だ。
福元記者と知り合ったのは、ジュネーブの国連欧州本部で人権理事会を取材していた時だった。
その時、私は彼にこんな質問をしている。
「安全保障という観点から、基地問題をどう考えればよいのだろう」
それに対し、福元記者は少しばかり厳しい表情を浮かべて、こう返した。
「東京の人は基地の存在を国防や安保の問題として語るんですよね。沖縄にとっては生活と命の問題なんですよ」
その通りだった。私も含め、基地問題を「国防や安保」の文脈に乗せようとする者は多い。そこには基地を強いられる側の苦痛や恐怖は無視されている、
福元記者は続けた。
「戦争の記憶がある。土地を奪われた記憶がある。そしていまなお基地を押し付けられている。毎年、一度は米軍のヘリが事故を起こす場所ですよ。人権も命も脅かされている。なのに、安保でしか沖縄を語ることのできない人が多いことを本当に悲しく思います」
同じようなやりとりを、『琉球新報』の記者にもぶつけたことがある。
相手は、やはり基地問題に詳しい島洋子記者だった。安全保障の観点から基地の必要性を訴える声もあるが、と問うた際、島記者は
「ならば応分の負担をすればいいだけです」と一言で私の問いを封じた。
国防が、安保が大事だというのであれば、自らがそれを「応分」に引き受ければいいだけの話だ。世論の一部には「沖縄は基地でメシを食っている」「基地のおかげで優遇されている」といった声すらあるのだ。メシが食えるほどの効果があると本当に信じているのであれば、むしろ積極的に基地を自らの土地で受け入れればよいではないか。
直近の世論調査でも、日本国民の約8割が日米安保を肯定している。多くが米軍と基地の存在を認めているわけだ。ならばなぜ、“沖縄さん“にばかり荷物を持たせるのであろうか。
沖縄に駐留する米軍部隊の主力は海兵隊だ。兵力の6割、基地面積の7割を占めている。実は、その海兵隊は、沖縄戦後、ほとんどが沖縄から撤退した。現在、沖縄にある海兵隊基地は「本土」から移転したものだ。沖縄戦からずっと居座り続けているわけではない。
2018年2月、安倍晋三首相は国会で沖縄県外への基地移転が進まない理由を問われた際、次のように答弁している。
「移設先となる本土の理解が得られない」
政府はいまなお「辺野古(基地建設)が唯一の解決策だ」と繰り返すが、沖縄に基地が集中しているのは、けっして地政学的な理由ではない。政治的事情がそうさせているにすぎないのだ。
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