パロディが成立する要件—多摩美の騒動とSEALDsのTシャツ 2-(松沢呉一) -2,706文字-
「著作権とパロディ-多摩美の騒動とSEALDsのTシャツ 1」の続きです。
金田沙織作品のコンセプト
前回書いたように、学校法人が現行の著作権法に反する可能性のある作品を外に向けて発信することが問題のひとつめ。
もうひとつ重要なテーマがあります。「この作品は社会的に容認されるべきパロディなのか否か」です。
私はパロディ合法化に賛成です。もし著作権法が非親告罪化されたら、パロディもオマージュもすべていきなり摘発されかねないので、早いうちに法改正した方がいい。
しかし、すでに書いたように、それを法律にすることは非常に難しいのです。パロディを合法化するとしても、今回の金田沙織さんの作品はそのボーダーに位置するものになるんじゃなかろうか。
私がパロディ裁判でのマッド・アマノ作品をパロディではないと認識しているのは、「オリジナル作品に対する批評性が薄く、自分で撮った写真で同じ表現が可能」「マッド・アマノ作品を見ても、オリジナル作品が誰のどの作品かを見極めることが難しい」ということです。
金田沙織作品ではこのふたつの条件を満たしています。それでも際どい。
具体的に見ていきます(以下は金田沙織さんが権利者の許諾を得ていないことを前提にしています。許諾を得ていればなんの問題もないわけで)。
「多摩美術大学卒業制作優秀作品集2015」より(以下同)
この作品はアイドル、おそらくはAKB48の握手会の様子を描いたものです。今現在に特有な事象を、いわさきちひろという今現在よく見られる表現とは離れたところにある存在によって描かせているという設定です。ないしは普遍的なものを描いていると見なされる表現の方法を今現在の狭いところに落とし込んでいます。
作者は広くこれらを宗教としてとらえています。狂信的と見なされるような現象を、そういった熱狂とは無縁に見える表現方法でとらえなおしていて、表現方法と表現の対象をずらす効果を生じさせています。
これらのコンセプト自体は肯定的にとらえられるのですが、ここで大きな問題があることに気づきます。
文字の補足で初めてパロディになる作品
これらの作品のコンセプトはおおむね言語的に説明されているってことです。だから展覧会場においても、キャプションを読んで初めて理解をする仕掛けになっています。
まず絵を鑑賞し、そこからイメージされる世界を確認してから文字を読んで「なんだよ」と。オチがキャプションに書かれているのですから、文字を読んで初めて作品を理解する。この手法自体は面白い。
しかし、文字を読まないと完成しないことに微妙さがあります。
以下も同様。夢見る少年あるいは少女を描いたものに見えます。
コミケに来たオタクだったんかよ。という落差がたしかに面白い。
言語的オチを絵画のパロディと見なせるか
ここには「どこまでがパロディとして容認されるべきか」という議論における際どい境界線があります。「あくまで法律でパロディを認める場合は」ということですけど。
絵がそれ自体でパロディであることを理解させず、言語的補足で初めてパロディであることを感得できるような表現を法律でパロディとして認めると、不都合が生じてしまうのです。
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