「セクハラ」という用語を堕落させた人たち—下戸による酒飲み擁護 13- (松沢呉一) -2,713文字-
「都議会の性差別野次(セクハラ野次に非ず)を振り返る—下戸による酒飲み擁護 12」の続きです。
用語の堕落
前々回、前回と見てきたように、セクハラの要件が欠落していった結果、合意のもとでの行為、少なくとも意に沿わないことを表示しない行為までをあとになって「断れなかった」「セクハラだ」などと言い出すケースが現実に出てきています。
もちろん、裁判では認められないのですけど、「セクハラ」は。意思表示できない人を救済する道具に堕してしまっています。
また、一方では権力関係のない場面での表現に対しても、「セクハラ」だとする、なんの定義もないデタラメな非難をする人たちもいます。たとえば「おっぱい募金」のようなものにさえ、「セクハラ」という言葉を使っている人たちがいました。
有料の衛星チャンネルでの放送であり、時間帯も深夜です。ゾーニングされた場にわざわざ踏み込んでおいて、「セクハラだぁ」と騒ぐ呆れた人々。
ストリップ劇場に金を払ってわざわざ入り込んで、「セクハラだぁ」、人んちを窓から覗きこんで、セックスをしているとろこを見て「セクハラだぁ」と言うようなものです(すでに繰り返してきたように、「ゾーニングが不十分だったのではないか」という批判は成立するとして)。
言葉の定義もないまま乱用し、気に食わないものを潰したがる際の武器にする。こういう人たちが、前回書いたような事態を招いたのです。社会の害悪は「おっぱい募金」ではなく、こいつらです。
※内容とずれてますが、写真は引き続き酒で。これも「タックスノット」にて。
合意をくつがえせる社会にしてはならない
たとえば「相手が上司だったので、イヤと言えませんでした」というケースをセクハラとして認めてしまうと、「相手が年上だったので、イヤと言えませんでした」も認められてしまいます。さらには「相手の学歴が上だったので」「相手の方が背が高かったので」「相手が男だったので」もすべて意思表示をしないまま、「強制だった」と言えてしまいます。
その結果、「女はか弱くて意思表示ができず、合意を成立させることができない存在」という認識を固定します。
こういうことを言うと必ず、「それによって救われた人がいるのだからいいではないか」と言い出す人たちがいます。都議会の性差別野次について論じている時もそういう人がいました。どれだけ頭の中がアバウトにできているのか。
それによって救われるべき人たちは定義の拡大をしなくても救われなければならない人たちです。
上司に請われて二人で酒を飲みに行ったら、「今回のプロジェクトのリーダーは君に任せようと思っている。ついては今日は朝までつきあってくれ」とホテルに誘われ、断って逃げ帰ったら、翌日、プロジェクトから外されていて、以降、さまざまな誹謗中傷をされるようになり、仕事を継続することが不可能になった。
なんてえのは疑いのないセクハラです。上司は処分されてしかるべき、会社は監督責任を問われるべき、民事訴訟で損害賠償金を支払うべき事例です。どうして定義を拡大しないと、この人は救われないのでありましょうか。
※「タックスノット」の入っているビルの入口の看板。「粧」は私が最初に女装した店。
イヤなものはイヤと言え
定義の拡大をしなければ救われない人たちは「セクハラ」という文脈では救われる必要がない人たちです。
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