松沢呉一のビバノン・ライフ

大学という聖域はもはや存在せず、残るはロフトプラスワンだけ(笑)—京都造形大学に対する訴訟[1]-(松沢呉一)

次回説明するように、京都造形大学(法人名は瓜生山学園であり、学校名は京都造形芸術大学ですが、京都造形大学で統一します)に対する訴訟は訴訟自体には触れにくい。今回書いているのは訴訟ではなく、その前に、原告があの公開講座に向き合った姿勢を批判したものです。これはやっておいた方がいいのだけれど、訴訟とは切り離しておいた方がいいと思います。

 

 

 

ミロ・モアレ再び

 

vivanon_sentence読んでいる人がどう思ったかわからないですが、書いている私にとって「裸の文脈」シリーズは相当に面白い内容でした。

私らは、物を見る時に、前提になる文脈に乗って判断をしています。それによって判断しやすくなったり、発信者の意図をスムーズに受け取れる一方で、見えなくなるものがあったり、意図がねじ曲がったりしていることがあります。

日本の美術系の大学がミロ・モアレを呼んで、一般の人向けの講座を開くとします。彼女は全裸で現れて、「女たちの権利を認めろ」と書かれたプラカードを持ってます。女の裸を解放することを求めたプロテストです。これには拍手が起きます。

と思ったら、今度はマンコに仕込んであった卵を産んで絵を描いたり、マンコをいじらせたり、会場にいる人のチンコをいじったりします。

たった今まで拍手をしていた人が不快な表情で席を立ちます。ミロ・モアレにとっては同じ延長にある表現なのに。

それを見て、苦痛だとして訴訟を起こした人がいたとします。「どんな人か知りませんでした」と。

あのさ、今の時代はインターネットというものがあってだな、そこにWikipediaってもんがあるので、どんな人か、瞬時にわかるわけ。その上、YouTubeってもんもあってだな、どんなアートをやっているか瞬時にわかるわけ。ミロ・モアレが出している映像を一通り観ると1時間はかかるので、瞬時じゃないけど、そういったものを調べて、講座に臨まないか?  予習しないと理解が深まらないのでもったいないし、とくに有料の場合は、そういう熱意があるから参加するってもんじゃないんか。

違う人もいるかもしれないですが、主催は少なくともその程度には興味がある人を対象にするってものです。とくに有料であれば。

というのがここまでいっぱい出ている意見です。私もそう思います。

※本年1月に公開されたミロ・モアレの「My Crazy Cartoon Immersion」より。「裸を晒したい」以上の意味はわからん。実際、それが彼女の真意かもしれない。

 

 

ミロ・モアレによる文脈の利用と意味の組み替え

 

vivanon_sentenceミロ・モアレの真意なんてわからないし、それに対して解説をしたものも読んでいないですが、あのシリーズに書いたように、彼女はこの社会にある「文脈」「思い込み」を逆手にとっているのだと私は理解しました。

私自身、彼女のパフォーマンスの表層にある「フェミニストとしてのプロテスト」を当初はそのまま受け取っていて、「へえ、こんな人もいるのか」と思っていたのですが、「あれ? これは違うみたいだぞ」と気づき始めます。

今時のアートでも、「感覚」「直感」「感情」「印象」といったフェイズだけで十分に理解することができるものもあるでしょう。そのフェイズで観た時に、彼女のパフォーマンスは、フェミニズム文脈のプロテストです。

その一方で、「思考」「意味」「論理」といったフェイズで初めて十全に理解できるものもあります。考えないと真意がわからず、そこにある文脈を読んで、それを外す作業が必要。必ずしも言語化しなければならないわけではないし、真意に達することが正しい鑑賞ってことでもないですが、その作業があるからより大きな刺激を得られます。事実、私にとってミロ・モアレが面白くなったのはここからです。

 

 

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