松沢呉一のビバノン・ライフ

ノーベル賞でもとっておかないとどこも受け入れてくれない—反ナチスのダダイスト、ジョン・ハートフィールド[下]-(松沢呉一)

DISCHARGE「NEVER AGAIN」に引き継がれた作品—反ナチスのダダイスト、ジョン・ハートフィールド[中]」の続きです。

 

 

 

それぞれの行方

 

vivanon_sentenceハートフィールドは、逃亡生活で体を悪くしながらも、かつ、作品を焼却されながらも、70代後半まで生きているので、これもまだマシと言わざるを得ないかもしれない。

では、前々回前回名前が出てきた人たちのその後も見ておきましょう。

 

ヴィーラント・ヘルツフェルデ(1896-1988) 兄と別れて米国に移住して、その地でブレヒトら亡命者たちとともに反ファシズムを掲げるオーロラ出版を立ち上げるが、借金がかさんで2年で倒産。1949年、東ドイツに戻り、ライプツィヒ大学の教授になり、以降、文学や社会学の分野で活躍。

リヒャルト・ヒュルゼンベック(1892-1974) 1933年、ダダの詩人であった彼はナチスから書くことを禁止され、1936年、米国に移住。もともと医学が専門だったため、その地で名前を変えて、医師・精神分析医として活動。1970年、若き日に住んでいたスイスに移住して、その地で死去。

ラウル・ハウスマン(1886-1971) 1933年、国外に脱出。イビサ 、 チューリッヒ 、 プラハ、パリを移動し、戦争中に南フランスに逃げ、戦後はフランス中部のリモージュに住み、黄疸で死去。

ルドルフ・シュリヒター(1890年-1955年) 「ダダ見本市」のあとは穏健な方向に転じたようだが、1935年、美術館から作品が撤去され(ダダイスト時代のものと思われる)、1938年、3ヶ月拘禁。作品の多くを空襲で焼失。戦後はミュンヘンで活動し、尿毒症で死去。

ジョージ・グロス(1893-1959) ダダイズムの活動とともにドイツ共産党の前身であるスパルタクス団に所属して逮捕されたこともあり、1919年、共産党結党とともに党員に。「ダダ見本市」の翌年の1921年、陸軍を侮辱したとして罰金刑に。1932年、米国に美術学校の教師として招かれ、翌年、そのまま亡命。以降、米国で生活していたが、ドイツに一時帰国中、酒に酔った事故で死亡。

マックス・エルンスト(1891-1976) ケルン・ダダを主導していたが、パリ・ダダとの活動が増えて、1922年からはパリを拠点に活動。本国ドイツでは退廃芸術とされて作品を持ち去られ、「退廃芸術展」に晒されたのちに焼却される。第二次世界大戦が始まった1939年には敵性外国人としてフランスで繰り返し拘留され、1940年、逮捕されて逃亡し、スペインを経由して、1941年米国に移住。1948年米国籍を取得。1953年、パリに戻り、死去。

ヴィリ・ミュンツェンベルク(1889-1940) 1933年、国会議事堂放火事件の直後、パリに脱出し、ドイツ共産党の活動と出版活動を継続。1935年、ドイツでは欠席裁判で死刑判決が出ており、1938年にはドイツ共産党から追放され、スターリンを批判し、反スターリニズム・反ナチズムへ。1940年、パリ陥落の前にフランス南部に逃げるが、縊死しているところを発見される。自殺と見られる。

ベルトルト・ブレヒト(1898- 1956) 妻はユダヤ人であり、自身の思想性もあり、国会議事堂放火事件の翌日、手術のために入院中だった病院を抜け出して家族とともにプラハへ。ウィーン、チューリッヒを経てデンマークへ。ナチスドイツが迫る中、1939年、ストックホルムへ。1940年、ストックホルムにナチスドイツが侵攻し、ヘルシンキへ。1941年米国に移住。しかし、1947年、共産主義者として尋問を受け、それを契機にチューリッヒへ移住。西ドイツへの入国は許されず、1948年東ドイツに移住。1956年、東ベルリンで心臓発作のため死去。

マグヌス・ヒルシュフェルト(1868 – 1935) 1933年、性学研究所が襲撃された時、国外にいて、そのまま亡命し、1935年、ニースに滞在中に死去。

John Heartfield, Arbeiter-Illustrierte-Zeitung AIZ, 17.7.1932

 

 

亡命生活は辛い

 

vivanon_sentenceドイツにい続けたのは実にルドルフ・シュリヒター一人だけです。

もちろん、ここに名前が出てこなかったダダイストでドイツに残った人々は他にもいます。「退廃芸術の頂点“ベルリン・ダダ”—反ナチスのダダイスト、ジョン・ハートフィールド[上]」に出した「ダダ見本市」の写真で、左側の壁にある絵を描いたオットー・ディクス(Otto Dix)は、退廃芸術としてその作品を没収され、焼却されながらもドイツに残り、ドイツ軍兵士としてフランスに従軍し、フランス軍の捕虜になっています。殺されなかっただけまだまし。

このように、目をつけられた人間は処刑代わりに最前線に送られることになっております。去るも地獄、残るも地獄。

 

 

next_vivanon

(残り 1808文字/全文: 3853文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ