松沢呉一のビバノン・ライフ

宅八郎とおたくの距離—死して初めて書く宅八郎との出会い[追加編 1]-(松沢呉一)

2人の間ではなかったことになっていた初対面のトラブル—死して初めて書く宅八郎との出会い[下]」で話はきれいさっぱり終わる予定だったのですが、あれを書いたことで思い出してしまったことがあったので、追加編を出しておきます。

 

 

 

30代だと辛うじて認識はしていた宅八郎の存在

 

vivanon_sentence秋山理央「死して初めて書く宅八郎との出会い」を読んで連絡をくれました。私が宅八郎こと矢野守啓と初めて出会った1984年に彼は生まれたそうです。

宅八郎がよくテレビに出ていた頃は小学生だったので、観ていたことがあったのではないかと私は思ったのですが、彼はその記憶がなく、宅八郎の存在は知っていても、「“元祖おたく”みたいな人」という程度の認識です。

当然個人差はあって、同世代でもテレビに出ている宅八郎を記憶している人もいますが、当時は小学生ですから、記憶は薄くて、正確にその存在を理解している人は少ない。

それでもたまには話題になることがあって、だから秋山理央も存在は知っていたわけですが、これが20代になると、「誰?それ」ってことになるのも多そうです。音楽活動を知っていた人は別にして、20代まで至るとそんなもんであろうことは想像ができて、とくに意外でもなんでもない。

宅八郎とは比べものにならないですが、私という書き手も、50代以上であればサブカル系のライター、40代以上であれば風俗ライターとして認知している人が少しはいます。しかし、それ以下になるとほとんど知らない。マゾだと若くても認識している人が少しいるかもしれない程度。

時が流れるのは早い。忘れられるのも早い。

それなりに深いつきあいのあった私だって、「宅八郎は皆にとってどういう存在だったのか」を知ろうとして、ネットサーフィンするような真似はしていません。そこまでの関心はもうない。

昔の知人たちに声をかけて「偲ぶ会」みたいなものをやろうとも思わない。誰かがやるんだったら出かけないではないけれど、雨が降っていたら行かないかも。その程度です。疎遠になってから時間が経ち過ぎました。

親密なつきあいがあった頃は、「宅ちゃん」と呼んでました。私だけでなく、近い人たちはたいていそうです。今回一度もこの呼称を使ってません。疎遠になってからは思い出すこともなくなってましたから、この呼称を使えなくなってました。もっともっと遠い人。

それでも、宅八郎のことを書いたことがきっかけで次から次と思い出すことがあります。

それらの中で、このところ書いていたことに関わるものを書いて、終わりにします。

※「ビバノン」の「週間ランキング」に「あるところまでの関係とあるところ以降の関係—死して初めて書く宅八郎との出会い[上]」と「トラブルから始まった—死して初めて書く宅八郎との出会い[中]」が入りました。「ビバノン」は新規で出した記事より、古い記事が検索でひっかかる方がうんとアクセスが多いので、ランク入りすること自体、新規の記事としては珍しい。しかし、予想していた通り、3日でアクセスはほとんどなくなりました。そんなもんですね。

 

 

宅八郎とおたくについて

 

vivanon_sentenceここまでを読んでもわかるように、宅八郎は「典型的おたく」ではありませんでした。

ここで言う「典型的おたく」とは、コミケに向けて同人誌を作る、あるいはコミケに行って大量の同人誌を買い漁るような漫画おたくであったり、アイドルのおっかけをして使える金のすべてをライブやグッズ、CDの購入に費やすアイドルおたくであったり、日本の商業アニメはすべて観ていると豪語して大量のDVDに囲まれて暇があるとそれを観ているアニメおたくであったり、怪獣もののテレビや映画を観まくって、怪獣グッズを保存するための部屋をもっているような怪獣おたくだったりです。

宅八郎は漫画もアイドルも好きだったことは事実ですが、宅八郎になる前の矢野守啓としてはピチカート・ファイヴMELONが好きで、流行の格好をして六本木インクスティックに行くような人物でした。

 

 

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