松沢呉一のビバノン・ライフ

吉岡彌生の扱いから見る日本の欠点—心のナチスも心の大日本帝国も抑えろ[ボツ編](松沢呉一)

心のナチスも心の大日本帝国も抑えろ」シリーズとして書いてあったものですが、最終回の最後に「このシリーズはもうちょっと書いてあったのですが、長くなったので、キリがいいところで終わっておきます」とあるように、「人口抑制・産児制限」から話がずれるのでカットしました。「大日本帝国を再現しないためには歴史を知るべし」といういつもの教訓をこの前に調べていた吉岡彌生にひっかけてまとめたものです。この段階で、「なぜ矯風会や吉岡彌生をフェミニズムにカウントすることができないのか」の考え方はおおむね整理されていて、「矯風会がフェミニズムに見える人たちへ」はこれを細かく説明したものと言えます。

矯風会がフェミニズムに見える人たちへ」を読めばいいとも言えるのですが、あちらは矯風会、こちらは吉岡彌生が軸です。昨今、また東京女子医大が話題になっているので、復活させておきます。

 

 

 

吉岡彌生を正しく評価する

 

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「ビバノン」で吉岡彌生についてまとめたことは私にとっては大いに意味がありました。以降もずっと吉岡彌生について考え続けています。道を歩いている時も銭湯に入っている時も考えています。

吉岡彌生は「青鞜」以降の婦人運動が国家主導の婦人団体と合体し、矯風会のような宗教右派とも合体して行く過程のキーになる人物であり、そこを見極めるためにはさらにさらに調べる必要がありますが、その筋道がぼんやりとではあれ見えてきました。

もうひとつ、ここから見えてきた収穫は日本人の特性です。よく「ドイツは今に至るまでナチスの追及をやり、政治家はナチスの反省を口にするのに、日本の政治家は〜」との嘆きが聞かれ、ドイツを崇めるだけでなく、戦後から今に至るまで継続されている負の部分も見極めておかないと見誤ると思っています。それでも研究者やジャーナリストたちがその負の部分を踏まえて、なおナチスについて調べ、発言し、どうしたらあの時代が再現されないのかについての奮闘を続けている点については見習いたいと私も思っています。

その点、日本は忘れすぎです。歴史から学ぶ気がない。同意できるか否かは別にして、歴史を知るという意味では、まだしも右派に属すると人たちの方が歴史を知ろうとしていると感じることが多々あります。

教育者たちも何もなかったように手のひらを返して、アメリカ礼讃、民主主義礼讃になっていって、「あの時代はひどかった」と言いながらも、その体質は何も変わっていないのではないかと疑うしかないのは、そういった教育者たちの戦前、戦中の言動を各学校がごまかしている点によく出ています。

そりゃ誰しも自分のミスまでは認めたくないですから、人のせいにして終らせたいでしょう。天皇が悪い、軍部が悪い、政治が悪いと言って済ませたい。しかし、そこに直接関わっていない世代までが、そのごまかしを踏襲している様を見ると、「おまえらも同類」と思わないでいられません。

※吉岡彌生シリーズで使わなかった余り物の写真

 

 

なぜ吉岡彌生はフェミニストとしてカウントされないのか

 

vivanon_sentence吉岡彌生について不思議なのは、あれだけの活動をしていたにもかかわらず、東京女子医大創立者として以外はほとんど語られることがない、あるとしても稀であることです。私も著書を読むまではうっすらと東京女子医科大の創立者としてしか認識していませんでした。

その果てに、ナチスを肯定する高須克弥を批判するために吉岡彌生を持ち出すような無様な記事まで出てくる始末です。吉岡彌生はナチスを肯定して、ドイツにまで行っているのに。

個人主義も英米の女権運動も「新しい女」も否定し、大陸や南方の侵略を肯定した国家主義者ですから、私はこの人がフェミニストには見えないのですが、女子医大を創立し、婦人参政権運動を一時は主導し、平塚らいてう同様に婦人保護を主張した点ではフェミニズムにかぶります。その果てにナチスの婦人対策まで礼賛したので、肯定することを躊躇する人たちが多いのでしょうが、宗教的道徳運動でしかない矯風会までをフェミニズムにカウントする昨今のフェミニストたちはためらうことなく吉岡彌生を礼賛していいはずです。ついでにナチスまで肯定して、その全体主義者的体質を明らかにするといいと思います。

与謝野晶子は一般には歌人として認識されていて、フェミニストとして認識する人は決して多くないように、さまざまな活動の中でもっとも知られる業績がその人物を代表することはよくあります。吉岡彌生も女子医大の創立者としての足跡がクローズアップされるのは当然ではありましょう。

しかし、与謝野晶子は、文筆以外の側面も消されるわけではなく、対して、吉岡彌生の足跡は見えにくくされています。吉岡彌生は女性の高等教育に尽力し、女の能力の高さを評価し、社会進出に賛成し、旧来の良妻賢母主義を批判していたのですから、他の女流教育家たちとはまったく違うし、官製の婦人運動を主導した人たちとも違います。その思想をもとにいくつもの団体に関わり、代表をやっていた団体もあるのですから、フェミニストとは言えずとも、女性の社会運動家と言うに相応しい。

しかし、吉岡彌生のそういった側面を知られることを都合が悪いと考える人たちがいることは容易に想像できます。そのことは女子医のサイトを見てもよくわかります。その部分はきれいに消されています。

吉岡彌生はホロコーストを肯定しているわけではなく、日本人の吉岡彌生がそんなことまで知ることはできなかったわけですが、それにしてもユダヤ迫害についてはわかっていたはずです。また、思想に踏み込むと、国家主義者として女たちをも戦争に駆り立てていったことにも触れるしかないので、一切なかったことにするしかないのでしょうが、否定する部分は否定して、肯定する部分は肯定すればいいだけのこと。

市川房枝、山高しげり、奥むめおらについても、戦前、戦中の活動については一部の研究者を除いては直視しようとしない人が多く、今も「男たちが戦争をやった。女たちは被害者だった」と言いたがる人たちがゴロゴロしています。

※同じ建物の写真は前に出してますが、吉岡彌生シリーズで使わなかった余り物の写真

 

 

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