松沢呉一のビバノン・ライフ

70歳を前に中山千夏が悟ったこと—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[9]-(松沢呉一)

女は平和的という決めつけはいらない—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[8]」の続きとして書いてあったのですが、あのシリーズは読む人もいなくなったので、もういいかというので打ち切りました。最初からいつ終わってもいいものとしてやってましたから。

瀬木比呂志著『絶望の裁判所』でもっとも注目した指摘—第一ラインと第二ラインを見極める[上]」「個のルール・コミュニティのルール・社会のルールを峻別すべし—第一ラインと第二ラインを見極める[下]」に書いたフェイズの見極めの話は過去にもいろいろ書いたよなと思って探していたら、これが出てきました。「ボツ復活」です。

後回しにしていたのは中山千夏の本を読んでからにしようと思ったためでもあるのですが、まあいいか。

2019年の11月から12月にかけて書いてあったもので、このシリーズは香港の女性プロテクターのSSを使っていて、それを見ているだけで泣けてきます。

 

 

 

中山千夏が語る「個と社会」

 

vivanon_sentence大杉栄を殺そうとしたことが痛快だとさ—宗教的偽善者・神近市子を評価する田嶋陽子[上]」に中山千夏の名前を出した際、「中山千夏って、今は何をしているんだろ」と思って検索したら、2年前にこんな本を出してました。

 

 

中山千夏が国会議員だった時期があることを完全に忘れてました。印象が薄くて、このポスターはぼんやり覚えているような気もしますけど、議員として何をしたのかはひとつとして思い出せない。

この本も出たこと自体知りませんでした。改めて読みたいとは思わないですが、インタビューを見たら、少し興味を抱きました。

この本を書くまでに長い長い時間を要したらしく、こんな分析をしています。

 

—書くつらさは、どこから来るものでしたか?

子役もタレントも、芸能なんです。子供だから、必ずしも自分の意思で始めたわけではないけれど、芸能は好きなことだったから、楽しくやってきたんですね。ところが国会議員は、気づいたらなっていた、おっちょこちょいでなってしまった、という感じでした。どうして政治家になったのか、なぜ大変だったのか、自分でもよくわかっていないから、書けない。

それが最近、「個と社会」という視点を得たことで、ようやく整理ができたんです。

—第1章で「個と社会」について述べられています。人は「個人」であると同時に「社会人」であり、二つは複雑に絡み合っていると。長く芸能の世界で「個」を磨いてきた中山さんが、「社会」的存在の政治家になったことで、様々な壁にぶちあたられたわけですね。

社会的に行動できていたら苦労はしていなかったんですけど、基本的に私はすごく我の強い人間。本書にも書いたように、政治家ってこれ以上ない「社会」的な立場でしょう。だから、大変だったんだと腑に落ちたんです。芸能人にもそういう側面はあって、煩わしかったんだけど、イヤならやめちゃえばいいと思ってやってきた。

2018年1月21日付「現代ビジネス」掲載

政治家になった元名子役・中山千夏が明かす「軌道を外れた6年」

 

 

ここで言う「個と社会」がどういうものであるのかは、著書を読まないと正確なことはわからないですけど、「個と社会」という考え方が整理されていなかったとの話は、中山千夏に限らず、「大いにありえる」と思いました。

この時点で中山千夏は60代末です。それでも気づけただけいいのですが、勘のよさそうな中山千夏でもこの歳になるまで気づけなかったのかと驚かないではいられない。

もちろん、私とてなお十分ではない自覚はあります。私は私の感情や感覚や勘みたいなものをできるだけ超えるように心掛けていて、それは自分でデータを出すことやどっかのデータを参照することだったり、現場で確認することだったり、人の話を聞くことだったりするのですけど、限界があります。

まして、その作業をやっていない人は「私」の視点をなかなか超えられないものではなかろうか。私がよく言う表現でいえば「世界が自分の頭の中にある状態」であり、「頭の外に世界があること」に気づくには何か大きなきっかけがない限り、自分の力では長い長い時間がかかるのです。

 

 

「私」と「他者」、「私」と「社会」の区別ができない人々

 

vivanon_sentenceこれに類する話は今まで何度か「ビバノン」に書いています。とくに「私を主語にできない問題」の「スピーカー研修の重要なポイント—「私」を主語にできない問題[付録 1]」が参考になると思います。

「私」を主語にして「私」を語ることは誰でもできます。この視点での「私」の表明には意義があり、それが個人の主体化ということです。

しかし、そういう場がなけれぱ伝えられない。そこで女たちが主体化する場を平塚らいてうが作りました。「青鞜」です。平塚らいてう時代の「青鞜」は散漫で主張がはっきりしないと出ている当時から評されていましたし、今もそう言われているのですが、婦人運動の評論誌ではないですから当然でしょう。場を作ったこと自体が平塚らいてう最大の貢献です。ここは無条件に高く評価されていい。

「私」を主語にして語ることには大きな価値があるとして、問題なのは「私」の視点のまま、他者を、全体を、社会を語ってしまう人たちです。中身は「私視点」なのに、主語が大きくなって「女総体」になる。もしくは「私視点」を他者や社会が共有すべきだと勘違いする。

「私はこの表現が不快」を社会が共有して当然と思う人たちがその典型です。

※今回以降、香港は文中には出てこないのですが、香港の民主化運動支持の意味と、「女は闘うことに向いてない」と言いたがる田嶋陽子への批判を込めまして、ここまでに続いて香港で闘うアマゾネスたちの図版です。South China Morning Postの動画「Campus chaos and Central Hong Kong clashes」よりバリケードを作る女子たち。おそらく理大内です。

 

 

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