ジャズの誕生とビッグバンド—マーチングバンドと黒人の歴史[中]-(松沢呉一)
「なぜ米国のマーチングバンドはほとんどが黒人なのか—マーチングバンドと黒人の歴史[上]」の続きです。
ブルースの父・ジャズの父、W.C.ハンディとマーチングバンド
南北戦争で今現在に直結するマーチングバンドの原型が確立され、それが戦後各所に持ち帰られて、軍楽隊のスタイルを残しつつも、戦争と切り離された音楽を演奏するようになっていきます。持ち帰った先の筆頭が学校でした。
「ミリタリー系マーチングバンドと非ミリタリー系マーチングバンド—「オレンジの悪魔」にキャバレーを見た[8]」に、今も残る黒人専門の高校や大学は、アファーマティブ・アクションの一環だろうと書きましたが、ルーツは古くて、南北戦争の前まで遡ることができます。黒人は高等教育を受けられなかったため、それをすくいあげるべく黒人学校が設立されます。南北戦争後は数を増やし、それらの学校が黒人のマーチングバンドを育成していくことになります。
今も活動するマーチングバンドの中には19世紀後半に創設されたバンドがあります。南北戦争でもたらされた流れの中で生まれたのです。前回出てきたアルコーン大学SODもそうですし、アラバマA&M大学のマーチングバンドもそう。
黒いダンサーたちがカッコよくて記憶したマーチングバンドです。フェチ心をくすぐります。黒いアイマスクでわかるように、完全にそっち方面からのインスパイアでしょう。いつもこの格好ではないですが、どんな格好でもアラバマA&Mバンドのダンサーたちはカッコいいです。
パレードだからでしょうが、「愛のコリーダ」など、よく知られている曲をやっています。
アラバマA&M大学マーチングバンドの結成は1890年。アラバマA&M大学の前身である農業機械師範大学の時代。結成から数年後、この大学に教員としてやってきたのがウィリアム・クリストファー・ハンディでした。W.C.ハンディ、あるいはただのW.C.と呼ばれます。
しかし、教員の給料は安く(黒人大学はとくに)、そこでW.C.ハンディはミンストレル・ショーで稼ぎます。多くの場合、白人が黒塗りをして黒人を滑稽に演じたわけですが、黒人によるミンストレルショーの劇団もあって、笑いをとる出し物とともに黒人音楽を演奏しました。W.C.ハンディは、ただ演奏するだけでなく、やがてミンストレル・ショーの劇団で監督をやるようになってました。
1902年に彼はミシシッピ州を旅行して、労働者たちが仕事の合間にギターやバンジョーで演奏する曲を採譜して発表。これがブルースを広く知らしめるきっかけとなり、また、彼自身、ブルースを演奏してその普及に努め、第一次世界大戦の前後には「メンフィス・ブルース」「セントルイス・ブルース」などのヒットをうみだして、その功績から、「ブルースの父」と呼ばれ、かつそこからジャズが発展していったことから「ジャズの父」とも呼ばれます。
それらはマーチングバンドとは別の流れですが、W.C.ハンディの音楽キャリアの始まりはマーチングバンドだったと言っていいでしょう。
✳︎Wikipediaより、1900年頃、アラバマA&M大学バンドでディレクターだったW.C.ハンディ
ジャズの誕生と発達
高等教育から締め出された黒人たちを集めた学校は、学業だけでなく、マーチングバンドのような表現の発展にも寄与しました。黒人が入学できる学校でも、そのような活動に参加することはご法度だったのです。
人種を問わず、マーチングバンドを発展させた筆頭はアメフトです。1892年から、大学間のフットボールの試合が行われるようになり、記録が残っているものとして、もっとも古いアメフトの試合でマーチングバンドが演奏したのは、1907年にイリノイ大学マーチング・イリーニ校の試合でした。これは白人たちによるバンドですが、その2年前の1905年にはイリノイ大学バンドが複雑なパターンのフォーメーションを確立して、フィールド上で文字を作ることを初めて実現したことがマーチングバンドの表現を拡大していました。
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