松沢呉一のビバノン・ライフ

第二次世界大戦がマーチングバンドを拡散した—マーチングバンドと黒人の歴史[下]-(松沢呉一)

ジャズの誕生とビッグバンド—マーチングバンドと黒人の歴史[中]」の続きです。

 

 

デューク・エリントンが切り拓いた黒人ビッグバンド

 

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ジェームズ・リース・ヨーロッパと同時期に、アート・ヒックマン、ポール・ホワイトマンなど白人によるビッグバンドが活躍。ミンストレルショーはすでに廃っていましたが、黒人が演奏できる商業施設は、その延長上にある演芸場であり、立派なホールや格式の高いキャバレーの類でも黒人演奏家は忌避されることがなおありました。

バンドマスターたちは音楽の技量やセンスで人を選択しますから、偏見は薄く、ポール・ホワイトマンは、黒人の演奏家を積極的に起用しようとしたのですが、周辺の反対で実現せず。小屋が嫌がることがあるため、仕事が減るという判断だったのでしょう。

しかし、これは現実によって乗り越えられていきます。1920年代になると、黒人であるデューク・エリントンのオーケストラが歴史を変えていきました。彼はハーレムにあるコットンクラブのハウス・オーケストラのリーダーに。ここでの演奏がラジオでオンエアされ、それまで好事家のものだったジャズの存在を広く知らしめていき、デューク・エリントンは絶大な人気を得ていきます。

1930年代にはベニー・グッドマンのオーケストラがスウィングの曲を次々とリリースして、スウィングは一世を風靡していきます。ベニー・グッドマンはロシア系ユダヤ人ということもあってか、人種的偏見が薄く、黒人の演奏家を積極的に起用し、ベニー・グッドマンの楽団から多くの黒人ジャズマンが輩出されていきます。ポール・ホワイトマンとは人気や熱意が違っていたのかもしれないですが、時代が変わりつつあったことも大きいかと思います。

ベニー・グッドマンが「シング シング シング」で太鼓をフィーチャーした印象的なイントロに加えて、太鼓のソロパートをいれたのもアフリカ音楽を意識したためで、前に出した動画でもコンボみたいなのを叩いている人たちはそれ風の衣装、それ風の飾りをつけています。これもまたステロタイプだと言われそうですが。

 

 

第二次世界大戦と米空軍軍楽隊

 

vivanon_sentence1920年には、カレッジ・フットボール黒人全国選手権が正式にスタート。

アメフトのいわば正史であるカレッジ・フットボールの古い写真や動画を見ても、黒人は存在しないが如くです。排除されたがために、カレッジフットボール黒人全国選手権は発展していき、黒人たちによるマーチングバンドも数を増やしていきます。

1941年、第二次世界大戦とともに空軍で軍楽隊が組織されます。陸軍はそれまでにも恒常的に軍楽隊を抱えていて、空軍はこの時が初めてだったのだと思われて、これが空軍バンド。のはじまり。

この時代になると、陸軍でも最先端でラッパや太鼓を鳴らすようなことはなくなってましたが、後方基地から送り出す際、あるいは葬儀や儀式の際などには必要とされ、さらには娯楽部門での役割が求められました。

空軍バンドの楽団員たちはプロの演奏家から集められて、ビッグバンドのメンバーたちも多かったのでしょうが、写真を見ても。黒人の姿は見られません。黒人は軍楽隊に採用されなかったというより、おそらくエリートである空軍には黒人兵はほとんどいなかったのでしょう。

陸軍の黒人部隊でもマーチングバンドが組織され、こちらもビッグバンド経験者は多かったはずですから、余暇の時間にはスウィングで兵士たちが踊るようなこともあったはずです。米軍とともにあちこちにスウィングは持ち込まれました。

✳︎In April of 1943, The AAF Band presented an outdoor concert at Washington’s National Airport, which featured German motion picture star and singer Marlene Dietrich who was a strong supporter of the US War Bond effort.  Arlington, Virginia. ナチスドイツを嫌って米国に渡ったマレーネ・ディートリッヒは米国では軍隊への慰問もしてました。

 

 

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