松沢呉一のビバノン・ライフ

栗原正尚「怨み屋本舗DIABLO/悪魔のフェミニスト」—モデルがいる創作物が問題になるケース-(松沢呉一)

 

「怨み屋本舗DIABLO/悪魔のフェミニスト」が話題

 

vivanon_sentence

前回書いたように、落選運動が成功するには条件が限られて、ひとつ間違うと対象の投票数を増やします。だったら、その対象と対立する候補を応援した方が精神衛生的にもいいと思います。選挙事務所に行けばたいてい歓迎してくれますから(敵のスパイを避けるために、無闇には入れない選対もありますが)、宛名書きでも手伝えばよろしい。

無思慮な行動は敵を利するってことですが、この法則が続けて発揮されているようです。

グランドジャンプ」に連載中、栗原正尚怨み屋本舗DIABLO/悪魔のフェミニスト」に対して、「Colaboを誹謗中傷している」とColabo派が騒いで、売上が激増しています。

 

 

 

ある実在の個人や団体をモデルにした創作物の問題点は大きくふたつ。ひとつはプライバシー侵害。もうひとつは名誉毀損

たとえば私が自分の性体験を小説にします。私にとっては純粋に自分の体験を書いただけですが、第三者に対して、その相手が誰であるのかわかるように書いた場合はプライバシー侵害になります。

また、小説として面白くするために、彼女は虚言がひどく、狂言自殺を繰り返して振り回されたというエピソードを入れた場合、読んだ人は実在の彼女は虚言癖がある自殺マニアだと信じてしまいましょう。これは名誉毀損。

私小説というジャンルが確立している日本では、こういった例は枚挙に遑がないはずなのですが、モデルのいる表現が裁判に至る例は稀です。戦前の文壇では、物書き同士が恋愛を書き合うこともあって、私小説が確立している分、「小説はそういうもん」として甘受する例が多かったかもしれないし、訴えても勝てないからかとも思います。

その理由はともかくとして、数少ない訴訟の中でもっとも知られる裁判のひとつに、川端康成をモデルにした臼井吉見著「事故のてんまつ」をめぐる裁判があります。死後、川端康成の遺族が訴えて、プライバシー侵害と名誉毀損の両面が争われました。裁判の途中で和解が成立したので、裁判上の結論は出てないのですが、和解条件の中に増刷しないとの一文があったので、著者も問題があったことを一定認めたのでしょう。

文芸評論家たちの間でも評価は分かれて、文芸作品において、モデルのある題材を書くのはいわば伝統であって、問題は現実と違う虚偽や誤解があったことだと批判されています。それも創作の範囲とする人たちもいて、この辺については簡単には結論は出せそうにない。

もうひとつ、訴訟が大いに話題になったものとして、柳美里石に泳ぐ魚」があります。モデルになった人物は著名な存在ではないながら、特定されるリスクが高く、やはりプライバシー侵害と名誉毀損の両面で訴訟を起こし、最高裁で原告の勝訴が確定し、単行本は大きく手を入れた改訂版となりました。

原告が勝ったのは、元の原稿ではモデルの身体的特徴までを書いていたためであり、単行本ではそこが改訂されています。

相当に珍しい身体的特徴を書くことで、モデルが誰であるのか特定でき、その描写に現実とは違う創作が混じっていたとしても、読者はそのことを読み取ることは不可能ですから、この判決は妥当だと当時私は書いています。

 

 

「Colaboをモデルにした表現」とさえ言えない「悪魔のフェミニスト」

 

vivanon_sentence今回の怨み屋本舗DIABLO/悪魔のフェミニスト」では、Colabo問題を契機にしていると読み取ることは容易としても、契機のひとつになったに過ぎず、Colaboそのままではないことはほとんどの人は理解できるでしょう。つまり、この漫画は「モデルのいる漫画」とまでは言えず、これまで訴訟になった「モデル小説」とはまるで違うものだと思います。

 

 

next_vivanon

(残り 1146文字/全文: 2786文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ