松沢呉一のビバノン・ライフ

遅ればせながら「セクシー田中さん」の件—再発防止策くらい出さないと、小学館は漫画家と読者の信頼を失うぞ-(松沢呉一)

 

協同組合日本シナリオ作家協会にブチ切れた

 

vivanon_sentenceずっと頭が英国や中国に行っていたので、日本で起きていることへの興味が薄くなっていたのですが、「セクシー田中さん」をめぐる様々は、沸々と怒りが湧いてきて、居ても立ってもいられなくなりました。つっても、私は原作を読んでないし、ドラマも観ていないので、あんまり語れる資格がなく、語れることはすでに誰かが語っているので、「まあいいか」と思っていたのですが、関係者のすべてが自己保身だけを考えてまずい対応をし、炎上に油を注いでいる状態であり、そうも炎上したいなら私もマッチ箱を手に参加しておくかと改めて思った次第。批判するだけでなく、先を見据えた提案もしておきます。

脚本家の相沢友子や日本テレビが原作を殺し、相沢の仲間らしき脚本家たちがそこに加わって芦原妃名子をも殺したと言ってよく、その過程は省略するとして、私が強く疑問を抱いたのは協同組合日本シナリオ作家協会の姿勢です。相沢友子をサポートするつもりで出した動画によって、オリジナルの物語を書きたくても書く能力のない脚本家が、原作を素材にして自己表現を実現したがり、原作を改変して初めて達成感を得る様がよくわかりました(直接にそう語っているのでなく、私はそう受け取ったということです)。

この動画に登場した同協会理事の脚本家である黒沢久子による「最近の原作者はこだわりが強いんですよね」「悲しいかな、原作通りにやって欲しいという人がたくさんいる」「原作通りにとか無理」「私は原作者とは会いたくない派」「私が大切なのは原作であって原作者はまあ関係ないかな」といった発言が世の人々の神経を逆撫でしました。これは相沢友子の意識を代弁したものでもあったのでしょう。

数々の問題発言の中で、私は「脚本家と原作者は同じ作家だから衝突して当然」というフレーズに注目しました。この人は、原作者と自分が「同じ」と考えているのか。

二次利用にも著作権は発生しますが、原著作者がいて初めて成立するものであり、漫画家が自分の作品にこだわりを持ち、原作通りにやって欲しがるのは漫画家の権利です。その意思を踏みにじったら、同一性保持権の侵害。それが嫌なら、脚本家は降りるしかないのです。

脚本家には脚本家の考えがあるでしょうから、それをわかってもらうために漫画家に会うこともあってよく、それによって、作品を読んだだけでは読み取れない漫画家の思いを知ることもできましょう。とくに連載中の場合は、先々の構想があったりしますから、その構想の障害になるようなことを避けて欲しがるのは当然です。

なのに、「原作者とは会いたくない」と胸を張る様子に、「ここまで思い上がることができるものか」と呆れました。

 

 

なぜ脚本家たちはああも思い上がったのか

 

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炎上したため、協同組合日本シナリオ作家協会は慌てて動画を非公開とし、黒沢久子は理事を辞任。責任を取ったのではなく、逃げただけでしょう。

協同組合日本シナリオ作家協会の活動方針の筆頭に「シナリオの著作権擁護」が掲げられています。脚本家の団体ですから、脚本の著作権擁護を追求するのは当然ですが、この団体の場合は、「他社の著作権を踏みにじっても、自分らの権利を拡大する」という発想になっているのではないか。

「そうなっているのだとしたら」という前提で想像を進めると、こうなったのは脚本家の「報われていない感」かもしれない。

映画で考えてみましょう。ある映画を語る際に、真っ先に出てくる関係者の名前は、出演者と監督です。「主演の演技が光っていた」「監督の最高傑作」など。人によっては「今もテーマソングを聴くと感動が蘇る」といったように曲やミュージシャンに言及します。作品によっては「原作を読み返した」といったように原作や原作者を出す人も増えます。

しかし、脚本や脚本家はあまり触れられない。撮影、照明、音響に比べれば触れられることがありましょうが、「脚本がひどい」といったように、悪い評価を押しつけられやすい。「原作と違って、あのシーンをラストにした監督はさすがだ」と、エピソードのひとつをラストに持ってきたのは脚本家の自分なのに、手柄は監督に持っていかれる。

 

 

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