久保憲司のロック・エンサイクロペディア

「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」 コロナで閉塞感ある今、この歌のことが僕には気になって仕方がないのです。 ここからストーンズの歌は始まったのような気がしているのです

 

僕はサイモン・レイノルズのような評論家になりたいと思っています。彼の代表作の一つは『ポストパンク・ジェネレーション1978-1984』というポスト・パンクがどういうことを歌っていたかということを解説した本です。他にはアシッド・ハウスについて書かれた『エナジー・フラッシュ』、グラムについての『ショック・アンド・アー』などがあります。

 

 

『ポストパンク・ジェネレーション1978-1984』の日本版は、アマゾン中古で一万九千八百円もしています。それくらい価値があるということです。僕もこの本に負けないくらいいい価値あることを書いていけたらいいなと思っています。

でも一万九千八百円というのはなかなか魅力的なお金です。英語版は2000円くらいで買えるので日本版は売ろうかなと思ってしまいます。日本語で読めるというのは手軽でいいですけど、今はページをスクリーン・ショットすればすぐに日本語に出来るアプリもあるので、訳された本を持っている必要はないのではないでしょうか。

世の中変わっていきます。世界レベルの評論を書いていかないと生き残れない時代が来ているのだと思います。これからはイギリスの雑誌にも原稿を書いていかないと食えないなと思っていたのですが、簡単に翻訳出来る時代が来てしまっているのです。そんな中でこのロック・エンサイクロペディアが生き残れるのか、楽しみです。

コロナで全てがストップしていて、全て意味がないように見えているだけかもしれませんが、ちょっと前まではとっても重要だったポスト・パンクもなんかもう意味を持たないような存在になっているような気がします。僕はポスト・パンクに影響された人たちからなんかすごいものが出てきそうな気がしていたのですが、ここ10年くらいはずっとループしていようにしか見えません。ダンス・ミュージックも、ヒップホップも。

僕がポスト・パンクを好きなのはポスト・パンクに流れる1968年の5月革命の起爆剤となった状況主義みたいなものが好きなだけかもしれません。青臭いと笑われると思いますが、僕は革命を起こしたいだけなのです。パンク、アシッドハウスが出てきた時、これは革命だろと思ってました。

本当に音楽で革命が起こせるのかどうなのか分かりませんが、新古典主義、ロマン主義、写実主義、印象派という絵画の歴史を観てたら、王様の首を切って、システムを変えるだけの自由で気が狂った世界を感じます。ロック、パンク、ポスト・パンクという流れにも僕は同じ流れを感じていたのですが、でも、もう停滞してしまったのかなという気もしいます。ポスト・パンクというのは僕にとって、印象派が、セザンヌ、ゴッホといったデッサン狂ってるけど、ヘタクソでもよくねぇみたいなポスト印象派になって、そっから表現主義、シュールレアリスム、ダダとなっていた感じと似ているなと思っていたのです。

アートも袋小路に入ってますけどね。バンクシーがやっていることなんかパンク以外の何者でもないので、一体これから僕たちどうなっていくんですかね。メタバースじゃないことだけは確かだと思うんですけど、いや、違うかメタバースの中のありえない世界が現実に影響を与えて革命へと向かうのか……。

とにかくコロナが終わらないとどうなるのか、全く分からないです。今は戦時中みたいなものかなと諦めるしかないですね。これもあと一年すれば終わるでしょう。

色々妄想しているわけですが、こういう革命を扇動していたのって、やっぱ中流階級だったなのかなと思うのです。なぜそんなことを思うかというと、サイモン・レイノルズの『ポストパンク・ジェネレーション1978-1984』の対になるようなポスト・パンクのインタビュー本「トータル・ウィアード」という本で、ペル・ウブのデヴィッド・トーマスと対談していて、「ペル・ウブなどのいたクリーヴランドのロック・シーンというのは中流階級的でしたよねと書かれた有名なエッセイがありますが」みたいな質問をして、「お前、ロックやっている奴に労働者階級の奴とかいると思っているの?ビートルズが労働者階級だと思ってるんじゃないだろうな」とぶち切られて「ストーンズは中流階級かもしれませんが、ビートルズは労働者階級だと思います……」とか細い声で反論していて笑ってしまいました。

 

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