松沢呉一のビバノン・ライフ

女たちが体制を補完し、道徳を強化した—女言葉の一世紀 121-(松沢呉一) -3,189文字-

森律子の父は長髪弁護士森肇、弟は自殺?—女言葉の一世紀 119」の続きです。

 

 

 

女流教育家はなぜ時代に逆行したのか

 

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女言葉の一世紀」で、女流教育家たちの愚劣な発言の数々をここまで見てきました。彼女らは、婦人参政権にも女の社会進出にも反対しました。女は劣っているとして、男女同権に反対しました。あまりに理不尽、あまりに不可解です。

果たしてこれは林望が言うように、時代的限界と見るべきものなのかどうか。そのことを改めてまとめてみました。

フェミニズムの初期において大きな役割を果たしたのは男たちです。ミルしかりベーベルしかり。日本では福沢諭吉しかり。自由民権運動の流れで日本でも女権運動が起こりますが、散発的な個人に留まります。

簡単な話で、そんなことを朝から晩まで考えて公表できる立場にいたのは男たちだけだったからです。家事や育児で忙しい主婦や一日十時間以上働いている女工では、こんなことを考えている暇はないのだし、素晴らしいアイデアがひらめいたところで発表する場もない。ここまではそういう解釈がすんなり成立するでしょう。

しかし、そこから時代を経て、日本では明治末期から女学校の数が激増し、女流教育家と称される一群が登場していきます。ちょうどその頃から婦人雑誌も続々創刊されて、そこに掲載された文章が本にもなって、女流教育家や女医、女流作家たちの発表の場が増えて発言力、影響力を増していくわけですが、であるならば男たちよりさらに先進的なスタンスを彼女たちは確立してよかったはずです。

現実には逆でした。女流教育家たちの存在は「女たちは参政権を求めていない」として婦人参政権時期尚早論の根拠にされていきます。女流教育家の多くは良妻賢母主義を信奉し、過去の遺物である武家の作法を取り入れ、娘たちに強いていきます。これがやがては昭和国民礼法にもなっていく。女たちの選択肢をとことん狭めたのがこの人たちなのです。

※図版は福沢諭吉の『女大学評論』(明治三二年)

 

 

擁護の余地なき女流教育家

 

vivanon_sentence一方、福沢諭吉の考えを継承したのはたとえば湯原元一のような教育家です。他にもいて、そのうち「女言葉の一世紀」に登場しますけど、男の教育家たちなのです。

学校経営は生徒とその親というお客様の要請に応える必要があって、良妻賢母は生徒を確保するための弁法だったのだとしたら、湯原元一が校長だった東京音楽学校だってそう大きくは変わらなかったでしょう。

むしろ娘を女学校に通わせようとする親は世間一般よりも先進的な考えを持つのが多かったはずです。娘をいいところに嫁がせるためや親自身の見栄だったりもしたでしょうが、娘の自立を願ったのもいたはずで、女の社会進出や婦人参政権に賛成するのがいなかったわけがない。本人たちもそうです。伊藤野枝もそうでした。だから女学校には失望しました。そういった存在を潰していく役割を女学校は果たしました。それを主導したのが女流教育家たちです。

女たちが続々と社会進出を果たし、婦人参政権が国会で議論され、男しかいなかった国会でも立派な婦人参政権肯定論を主張する議員たちがいた時代に、教育を受け、発言力もあり、本を買うこともできないくらい貧しかったはずがない女流教育家たちが男女同権に反対し、婦人参政権に反対するのはいくらなんでもって話であって、どうやっても擁護する余地などあるはずがない。

※『東京音楽学校創立五十年記念』(昭和四年)より校舎の写真

 

 

花園歌子、伊藤野枝、森律子に共通するもの

 

vivanon_sentence婦人教育家たちは婦人運動家にはカウントされない人々ですから、こんなもんは無視してもいいとして、婦人運動家、つまりはフェミニストとされる人々でも、その主張をつぶさに見て行くと、シャキッとせんのよね。

 

 

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