松沢呉一のビバノン・ライフ

女たちの廃娼運動批判—伊藤野枝と神近市子[1]-[ビバノン循環湯 415] (松沢呉一) -5,220文字-

これは2000年頃にポット出版のサイトで公開したものです(現在は読めません)。藤目ゆき著『性の歴史学』(1997/不二出版)を読んで、それにからめてさまざま書いていたもののひとつです。『性の歴史学』に限らず、別の本から孫引きが多く、ひとつひとつ原文を確かめて差し替えた方がいいのですが、それをやっているとえれえ時間がかかるので、一部のみ原文からの引用に差し替えてます。

栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』を読むまですっかり忘れていたのですが、伊藤野枝の矯風会批判については、この時点で書いていますし、平塚らいてうが伊藤野枝を冷酷に切り捨てたこともここに書いています。なんでもかんでも忘れすぎ。

伊藤野枝の廃娼運動批判は「伊藤野枝と廃娼論争-栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』より 1」でも取り上げていますが、そのあとの流れから、ここはそのまま残してあり、これに続いていた平塚らいてうによる矯風会批判は「宮本百合子も平塚らいてうも矯風会を批判-『女工哀史』を読む 14」と重複するのでカットしました。あっちを読んでちょ。

前半はこれまで「ビバノン」に出してきたものと大差ないですが、後半の「日蔭茶屋事件」については細かく論じたものを出したことがないので、ここで引用している竹中労の論考とともに読みがいがあろうかと思います。

 

 

伊藤野枝による矯風会批判

 

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廃娼運動を人権運動ととらえてはなりません。公娼廃止や娼妓の救済それのみを取り出した時には人権擁護として評価すべき点がありますが、その時に我々が評価する思いを彼らはそのままには共有していなかったのです。そのことを鋭く見抜いている人々は当時からいました。

まずは伊藤野枝。

 

『賤業婦』と彼女等は呼んでいる。私はそれ丈けで既に彼女等の傲慢さを、または浅薄さを十分に証拠だてる事が出来る。

(略)

一人の女が生活難の為に『賤業婦』に落ちてゆく。それを彼女たちに云わせると何時でも考え方が足りないとか、無智だからと云っている。成程それに相違はないが、彼女たちはその可愛想な女の無智や苦悶やそこにまでおちていくプロセスも考えず、一概にその無智を侮蔑するような傾きを持っている。

 

これは「青鞜」第五巻一一号(大正四年/一九一五年十二月号)に掲載された「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業について」という一文から(『性の歴史学』からの孫引きです。)。婦人矯風会を名指しで批判したものであり、タイトルの「傲慢狭量にして不徹底」は矯風会のことを言っています。

伊藤野枝も決して公娼制度を肯定していたわけではありません。主義者の中でも遊廓や私娼に通うのは少なくなく、中には元娼妓や酌婦と暮らすのもいて、それに対する嫌悪を抱いていましたが、売春をせざるを得ない女たちの立場や心情は理解し、社会構造を変革しない限り問題は解決しないことを見据え、結婚制度も廃止すべきと考えていたわけです。

そんな伊藤野枝からすると、経済的に余裕のある人々が、その立場を守りながら、つまり、売春をせざるを得ないところに貧しい女たちに送り込む構造を温存しながら、売春をする者たちを蔑視し、さらに困窮させるような主張をする廃娼派が許せなかったのであります。

伊藤野枝以前から、「賎業婦」といった言葉遣いに対する批判があったのか、「廓清」第二巻第五号(明治四五年/一九一二年五月号)掲載の「廓清会とは何ぞや」(著者名は廓清会)で、蔑称を使用することについての弁明、あるいはそうすべきであるとの主張が為されています。

 

政府が、凡て貞操の売買をなすものを以て法律上の罪悪と認むるならば国民の道徳観念は必ず今より数等高まって来るに違いないのである。論より証拠、現に『淫売婦』と云えば如何にも不快に汚らしく響くが『花魁』といえば左程には思わぬ、大変に耳の感触が異なるではないか。而して淫売婦と花魁と、どれだけの違いがあるかと云えば、其所業に於ては毫も異なる所はない。只之に対する政府の態度が異なるだけではないか即ち一方は犯罪とし、一方は営業だという一点に帰するのである。

 

花魁」と「淫売婦」では指し示す対象が違いますし、使用されていた時代も違います。花魁は廓のトップに君臨する存在であり、江戸の最下層は夜鷹です。江戸の花魁の華やかなイメージは、言葉によって作られたものではなく、また、客寄せのためだけでもなく、事実の裏づけもあります。高い着物を着て、絹の布団で寝て、金のある男たちの相手をし、時にはそういった客に身請けをされる。

対して最下層は鼻がもげていたりする老女が中心の夜鷹です。近代になってからは乞食淫売と呼ばれ、これが淫売婦の実相です(※乞食淫売についての詳細は『闇の女たち』を参照のこと)。その実相に伴って言葉が蔑視を含むようになった、あるいは蔑視される存在だからそのような言葉が当てはめられるようになったと見るべきでしょう。

その実相に伴って、それぞれの言葉を区別して使うのではなく、また、さほど蔑むニュアンスのない売笑婦、売春婦、娼婦といった総称を使うのでもなく、働く女たちをすべて不快で汚らしいイメージで語りたいということなのです。とにかく貶めたい、現実以上に不潔に扱いたいと熱望する最低の人間どもに対しては「キリストの腐れチンコでもなめておけ!」と罵倒しても一向にかまうまい。

彼らの主眼は、売春の全否定であり、その実、働く者たちにも蔑視を抱いていたことは疑う余地はないでしょう。

※「青鞜」創刊号。Wikipediaより

 

 

水平運動からの矯風会批判

 

vivanon_sentence性の歴史学』では、部落解放運動における女たちの主張にも章を割いており、中流以上に属する余裕ある女たちによる女権論ではなく、まさに命懸けの解放闘争を強いられた彼女らの言葉はさらに一層重く、廃娼運動の欺瞞を十二分に暴いております。

以下も『性の歴史学』からの孫引きです。

京瀬宮子の言葉。

 

此頃公娼廃止等と騒ぎ回っている人が沢山ありますが、廃止は当然の事であって、誠に結構な運動ですが、社会の経済組織を改めずに其の運動が実現すると思っているのは大きな間違いです。

『愛国新聞』第二号(一九二四年三月一一日)発行より

 

 

「騒ぎ回っている」という言い方から、「金のある支配層の奥様方やキリスト教にかぶれている人たちが事の本質を見ないまま、下層の人々を貶めている」という思いを感じ取るのも無理ではないかと思います。

上に出てきた雑誌『廓清』は矯風会や救世軍を中心に、廃娼運動の拠点となった廓清会が出していたもので、この雑誌では、被差別部落に対する蔑視を露にした文章を掲載していることでも廃娼運動に集まった人々の意識をよく表していましょう。

 

 

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