松沢呉一のビバノン・ライフ

わが愛わが闘い—伊藤野枝と神近市子[2]-[ビバノン循環湯 416] (松沢呉一) -4,001文字-

女たちの廃娼運動批判—伊藤野枝と神近市子[1]」の続きです。

 

 

 

 限られた選択肢しかない中で選択した意思を否定できるか

 

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売買春否定派がお好きな「限られた選択肢の中から選んだだけなのだから、自己決定ではない。自分で決めたと思い込んでいるだけ」という指摘のうち、「限られた選択肢の中から選んだ」という部分は正しい。ほとんどの人は限られた選択肢しか与えられていない。ここまでは間違いのない現実。

では、限られた選択肢から選んだ人は、その意思を否定されていいんですかね。職業に限らない話です。恋愛だって、結婚だって、ほとんどの人は限られた選択肢しかない中から選んでいます。生まれてからこれまで一度として選択ができたことのない人もいます。

無限の選択肢の中から相手を選べた人以外は、「限られた選択肢の中から選んだだけ。自分で決めたと思い込んでいるだけ」として結婚の合意が存在しないとして否定されていいんですかね。

こういうことを言う人たちは無限の選択肢の中から自分のやりたいことを選び取ったと信じて疑えないのでしょう。大学の教員や弁護士、政治家といった仕事をやっている人はそうなのかもしれませんね。よござんした。しかし、お前らみたいなのだけが社会を構成しているんじゃねえぞ。

とりわけハンディを負う者たちは、健常者、日本国籍をもつ人々、高学歴の人々、恵まれた家庭環境にある人々よりも限られた選択肢しかない。その選択肢を性労働は広げているのですから、性労働否定は、少ない選択肢の中から選び出したその選択をも奪おうとすることになってしまいます。

その人たちから職を奪ったり、法によって逮捕するよう仕向けたり、より強い差別の視線を強いようとするのが、そういった売買春否定論です。よくもまあ、こうも無防備な差別意識を露わにできるものです。

たとえばこれがかつての被差別部落だったとしましょう。他の仕事をしようにもできない人々に、「動物を殺して革製品を作ったり、草履や竹細工のような仕事は労多くして利益が少ない悲惨な仕事だから、そんな仕事を法で禁じろ」と主張するのが正しいか? 「おまえらの仕事は卑しいのですぐにやめろ」と言うのが正しいか?

※本文と直接の関係はないですが、永田宗二郎著『品川遊廓史考』(昭和四)より相模楼

 

 

格差をなくすために

 

vivanon_sentenceこのこともまた何度か指摘しているように、芸能と売春は似通っています。そういった仕事しか与えないでおいて、そして、その恩恵を受けておいて、そのくせ蔑視し続けた構造が性労働においては今も続いているわけです。

その貧富の構造、差別・被差別の構造を変革しようとする人たちも、しばしば「貧しいからこんな仕事しかできない」と仕事を貶める。これでは「醜業」と呼ぶ人たちと、蔑視の点では変わらない。誉め称える必要まではないにせよ、仕事は仕事として認め、その労働環境の向上を目指せばいいだけのことなのです。

なぜ仕事としてとらえ、そこでの労働環境の向上、収入の増加、リスクの軽減を求めることができないのか。道徳が妨害するからです。処女や貞操が大事だと思っているからです。はしたない女たちは制裁されなければならないと信じて疑っていないからです。

「限られた選択肢の中から辛うじて選んだだけ」という指摘は、より多くの人により多くの選択肢を社会が提示すべきであるとの主張につながり、悪辣な環境であれば改善すべしという主張につながるだけ。道徳による蔑視がなければそうなる。

性労働否定ではなく、性労働者の男女比から、女がより職業選択を制限されていることの証拠として出すことは正しいかもしれないですが、同様のことは男子従業員にも言えることです。学歴や国籍で就職活動が制限される人々、貧困等のデメリットを受けてきた人々も男女問わず風俗産業に従事しております。同性愛者向けの売り専やAV男優など、男が従事できるセックスワークは少ないため、従業員になることが多いだけです。

となると、男の性の商品化がさなれていないこと、男が売春しようにも客がつかないことが問題ということになりましょうが、ここでは女に客になるほどの経済的な余裕がないことやそういう行為をする女への蔑視も関わっていますので、たしかに男女の格差の証拠ではあります。格差を解消することが求められるという問題であって、男女ともに選択の幅を狭めるべきではないのです。

※永田宗二郎著『品川遊廓史考』(昭和四)より品川遊廓入口

 

 

廃娼運動と姦通罪強化に通底するもの

 

vivanon_sentence前回見た京瀬宮子、前田はな子の言葉は、性労働者の実情を踏まえて、社会構造に原因を求めている点で、南喜一や鷲尾浩にも通じ、社会構造の変革なきままに、売買春否定をすることは、彼女らの生活をさらに困窮させ、蔑視を加速させるものでしかないことを見抜いています。

 

 

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