「オカマ」が指し示す範囲—心の内務省を抑えろ[10](松沢呉一)-2,880文字-
「オカマ論争を振り返る—心の内務省を抑えろ[9]」の続きです。
「オカマ」が指し示す人々
東郷健のような自称としての「オカマ」は除くとして、「オカマ」という言葉を取り出した時にまず指し示すのは男娼です。『闇の女たち』にも実例が出てくるように、トランスとは限らず、同性愛者とも限らないですけど、女装をして夜の街に立ち、客の相手をする人たち。戦後に関して言えば、これがもっとも狭義の当事者です。
焼け跡時代のゲイバーは男娼が店を出すことがよくあって、そしてまた街に立つことがあったことは『闇の女たち』のモンローさんたちのインタビューにも出ていた通り。よってゲイバーで働く人たちも比較的狭い意味での当時者と言っていい。東郷健は男娼を経ていないわけですけど、着流しのゲイボーイということで東郷健もこの範囲の「オカマ」に含まれます。
東郷健もかつてはこの言葉を嫌っていたように、当初からこの言葉は蔑称として使用されることが多くて、焼け跡時代、自称としては「女形」が使われることが多かったことは「「バンかけ」「パンパン」がつなぐ焼け跡と現在-ノガミ旅行記 [1]」に書いた通りです。「おやま」ではなく「おんながた」と読んだようです。
ただ、外に立つ人たちと店をやっている人たちの間には人的つながりがもともとあったとは言えども、この間には微妙な感情もありました。これは赤線の女たちが街娼を「ジキパン(乞食パンパン)」と呼んでバカにしていたこととも重なります。赤然とパンパンでは、働く層がもともと違うのに対して、男娼と店の人たちは近い関係にあるため、そこまで露骨ではなかったにせよ、外に立つ人たちに対する冷笑みたいなものを古い世代のゲイバーの人たちの言葉から感じることはありました。その世代がほとんど消えてしまっているので、「過去にあった」と言った方がいいか。
はっきりとそのことを確認したことはなく、個人差、地域差も相当にありそうですが、中で働く人たちにとっては外で客を引くのが「オカマ」であって、自分たちは違うということから、「オカマ」という呼称を嫌ったところもあるかもしれない。
いずれにせよ、その経緯からすると、注釈なく、この人たちをオカマと呼ぶのは好ましくはないでしょうけど、「オカマ」と呼ばれる人が望んで自称として使用していても「使ってはならない言葉」とまで言えるのかどうか。
女性性を持つ男は誰もが当事者であり得る
「オカマ」が蔑称として広く同性愛者に向けられることもあって、これも当事者ですけど、「オカマ」が蔑称としてその指し示す範囲が拡大されていったのは、男娼が二重三重に蔑視される存在だったためです。男が男を相手にすること、その男が女装し、化粧をし、女の言葉を使うこと、売春をしていることがそれぞれ蔑視の対象です。
その部分に該当する対象に拡大される過程で、男娼の意味合いが薄まり、また、男娼が数を減らす中でその存在自体忘れられていくわけですけど、始まりはそこにあったのだし、その名残はなおあるでしょう。今も「オカマ」という言葉はマッチョな男性同性愛者よりも、女装したり、化粧をしたり、女言葉を使い、女っぽい仕草をする人たちに重きがあります。
ここで「オカマ」という言葉が指し示すのは、男が女性性を持つ状態のことなのです。「裸の文脈」シリーズに出てきた「チンコのある女」「マンコのある男」のうちの「マンコのある男」です。
あの文脈での「マンコのある男」は内面的なものですが、「オカマ」はそれが外に表れ出た状態を指すと言っていいでしょう。
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