松沢呉一のビバノン・ライフ

湯には町が映し出される—銭湯に見る人間関係[5](松沢呉一)-2,506文字-

離婚したことありますか?—銭湯に見る人間関係[4]」の続きです。

 

 

銭湯はバスや電車と同じ

 

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銭湯でのコミュニケーションは、銭湯外での関係があって初めて濃いものになるのであって、銭湯で出会ったところで、そこから顔見知り以上になって、銭湯外にまでその関係が拡大されることは極々稀です。

古くからの下町だと、町内会、商店会、消防団、PTA、親族など、複数の関係が交差していることが多いでしょうけど、学生街の銭湯だと、サークル単位、寮単位(寮にはシャワーしかないとか、入れる時間が決まっているなどの理由から銭湯に来るのがいる)、クラス単位の関係になっていて、それらの関係内コミュニケーションは活発でも、それぞれは交わらず、独立して会話が成立しています。

「同じ大学」「同じ世代」ってだけでは、その壁を超えて会話することはほとんどない。むしろ、それぞれ確固とした関係が成立しているがために、その関係を超えてはつながらない傾向があります。

この中で関係を強化する効用はあります。体育会系の学生たちが練習のあと一緒に銭湯に入れば結束が強まって試合に勝てるかもしれない。町内会でも商店会でも家族でも同じです。まさに裸の付き合い。その効用は間違いなくあります。

銭湯は時間帯によっても人が入れ替わり、学生街や観光客の多い銭湯以外、おおむね夜遅くなると洗い場での会話はあまり聞かれない。それらの関係に属していない一人者であり、それらの関係に属している人でも、遅い時間帯だと懇意の人がいない。

一見、人と人が出会うコミュニケーションの場のようでありながら、ここから親密な人間関係が新たにできることは稀です。すでにできている人々の関係は時に新たな関係を作り出すことの障害になり、一対一で出会えば親密になる関係が、ここではほとんど作られない。

人と人との関係が見知らぬ個と個が向かい合うことの妨害をするのです。「集団のつながり」は個を排除するとでも言っておきましょうか。

 

 

「銭湯の人」とは親密な話がしやすい

 

vivanon_sentence例外は「銭湯の人」と客の関係です。

この関係では相当に踏み込んだ会話になることがあります。その例は「初めて生で見た陰毛[2]-毛から世界を見る 43」参照。念のために補足しておきますが、あの時の私はただの客であり、ライターなんてことは一言も言ってません。おばちゃんはただの客に接しているだけです。「写真を撮っていいですか」と確認はとってますが、おばちゃんは何に使うのかも聞いてこなかったんじゃないかな。

これ以外でも、一度行っただけの銭湯で「銭湯の人」と長時間話したことが何度もあります。

時間で言うと、今まで私が銭湯で交わした会話の半分以上は「銭湯の人」との会話です。七割がそうかもしれない。二割は知り合いとの会話です。一緒に銭湯に行ったり、たまたま出くわしたり。他のお客さんとの会話はせいぜい一割程度だろうと思います。

私だけじゃなく、「銭湯の人」と客がダベっているところをよく見ます。「銭湯の人」と複数のお客さんが話していることもありますし、とくに女湯の客と長話しているところを見かけます。

アジア系の留学生らしき若い外国人とおばちゃんが親密そうに話しているところを見たこともあります。「なんとか君」と名前まで呼んでいたはずです。

 

 

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