松沢呉一のビバノン・ライフ

日本人のステレオタイプから出っ歯が消えつつある—群衆心理に打ち勝つ方法[6](松沢呉一)-2,817文字-

在日認定がなされるまで—群衆心理に打ち勝つ方法[5]」の続きです。

 

 

 

ステレオタイプの校正・校閲

 

vivanon_sentenceステレオタイプと現実との間にズレが生じた場合、多くの人は現実に合わせてステレオタイプを自然と修正していきます。

皆さんもさまざまな事象や集団を挙げてみて、自分の中でそのイメージがどう変化してきたのか、その変化は何によってもたらされたのかを思い返して欲しい。

たとえば私で言えば、三十年前のレズビアンは男臭いイメージでした。あえて言うなら、ダイク系、体育会系です。これは実際に会ったことがあるためです。やがてここにインテリ系が加わります。本当にインテリとは限らないですが、ショートカットで眼鏡をかけているようなタイプ。これも実際に会ったためです。

では、今はどうかというと、「レズビアンはいろいろ」です。パターンはあるとしても、そのパターンはヘテロと同じだけあって、あとは分布が違うくらいなので、「女」と聞くのと「レズビアン」と聞くのとでは喚起されるイメージのヴァージョンには差がない。

情報や経験値が少ないと、社会に流通するステレオタイプにはまりやすく、かつ自身の少ない情報や経験が偏見になりやすいのですが、経験値が高まるとともに細分化されて、個別のジャンルのステレオタイプはできても、全体として統一的なステレオタイプができにくくなります。その分、個人が見えてくる。

だいたいこういう流れじゃないでしょうか。

Exciting Comics October 1, 1944 小さい絵なのに、右下の日本兵はやっぱり歯を出しています。小さい絵だからこそ、歯を出して日本兵であることをアピールする必然性があったとも言えます。

 

 

偏見自体をなくそうとすることが招く結果

 

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前回、「偏見をなくそう」というお約束のフレーズは無効だと書きました。どうでもいいことのようでどうでもよくない。上に書いたようなステレオタイプの変化を考えると、どうでもよくないのです。

たとえば東郷健がゲイとして立候補した時の反発は「ゲイはああいうものだと思われる」というものだったように、「偏見を強化する」という主張に類するものでした。

「偏見を生み出す存在は認めない」という考え方です。他に「ゲイ」をしょって目立つ人がいなければ「ゲイって東郷健みたいな人たちなんだ」と思う人たちが出てきてしまうのは事実ですから、「偏見をなくそう」という考え方からすると正しい非難かもしれない。

また、それしか知らなければそうなるのは当然なのに、「ゲイって東郷健みたいな人たちなんだ」と思う人たちも偏見を抱いたことで非難の対象になります。

東郷健ほど極端ではないにしても、女性性を持つオネエもそう言われる。マッチョでもそう言われる。誰が名乗り出てもそう言われる。ゲイではないですけど、HGもそう言われてました。結局のところ、誰も名乗り出ることができない社会の到来です。

対して私は「偏見を完全になくすことはできない。しかし、修正はなされる」と考えていますから、「東郷健でできたイメージは別の存在が修正すればいい」と考えます。おすぎとピーコでも誰でもいいですけど、それでできたイメージはさらに別の存在が修正し、細分化する。さまざまなタイプが出てきて「ゲイはいろいろ」となる。

しかし、同時にゲイにはいろいろなステレオタイプがあるということにもなって、「ああ、あのタイプのゲイね」になることもしばしばあります。これはもう避けようがなくて、私らの脳はステレオタイプの集積で個人を把握する仕組みになっているため、こういう過程を経てやっと個人は個人として認識されるのです。

「誰も名乗り出るな」と「いっぱい名乗り出よ」の違いです。決定的な違いでしょ。

※図版はTropesのJapanese Tourisより。歯が出てない。目が細く、眼鏡をかけ、やたらと写真を撮るのが今の日本のステロタイプ。まだ残ってはいますけど、ここ半世紀の間に出っ歯が消えつつあります。このTropesはさまざまな表現物で扱われたステレオタイプを集積するwikiです。

 

 

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