松沢呉一のビバノン・ライフ

廃娼運動は純潔運動の一環—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[廃娼編 2]-(松沢呉一)

日本民族の恥だから売春する女を許せなかった久布白落実—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[廃娼編 1]」の続きです。

 

 

 

自分の意思で売春する女を消したい

 

vivanon_sentence前回新日本の建設と婦人』から引用した久布白落実の文章を読むと、矯風会の廃娼運動は人権に基づくものではないことがはっきりわかりましょう。自分の意思で売春するような女は日本民族としての恥だから許せなかったのです。

あれを読んで、「女将に“好きでやっている”と言わされている」「そうは言っても強制されている」と言いたがる人たちもいそうですが、そんなことは久布白落実は一言も言っておらず、その可能性を匂わせてもいませんので、勝手な推測はやめましょう。久布白落実の意思を尊重しましょう。

久布白落実は本心で彼女らがそう言っていると受け取ったのですし、だから憤慨しているのは明らかです。それが奥床しい日本婦人としてあってはならないことだから否定をしたのです。疑う人は原文をどうぞ読んでください。

以降、久布白落実が売春に反対したのも、「強制されているから」「意思が踏みにじられているから」ではありません。大和民族の看板をしょっている久布白落実は、その道徳に反する女たちの意思を否定したかったからです。

それにしても不思議です。「この我国に於ける婦人に対して、此れ丈け貞操の教育が与へられ、それが又比類なく能く消化されて、上下を通じて日本婦人の貞操は大部分に於て人も信じ我も信じ、我が民族の鞏固(きょうこ)なる礎となって居るにも叶(ママ)はらず」、自分の意思で売春する女たちを許せなかったのに、初代会頭の行為はどうして隠したんですかね。どうして大声で糾弾しなかったんですかね。

堂々としている分、売春するあの女たちの方がはるかにマシじゃないですか。

久布白落実の鮮やかなダブルスタンダード。身内がやっても許す。よその人がやったら決して許さない。よくあることではありますが。

こちらの古本屋さんから借りた愛国婦人会の絵葉書。愛国婦人会の歌「銃後の日本大丈夫」を絵葉書にしたもの。愛国婦人会や国防婦人会と矯風会は似たところがあります。民族を基盤にした道徳を守り、軍部をサポートした点もそうですし、人的にもつながります。矯風会と婦人参政権運動を担った吉岡彌生は愛国婦人会の評議員でした。違う点は矯風会の根幹にはビクトリア朝的キリスト教道徳があったこと、禁酒と廃娼を活動の柱にしていたことですが、とくに戦中においてはファシズム団体と位置づけていいのは同じです。「ファシズムとは何か」についてはのちのちやります。愛国婦人会や国防婦人会も女が戦争協力した点で社会進出の一形態を実現しましたが、これもフェミニズムと言うか?

 

 

私がもっとも軽蔑するタイプの人間たち

 

vivanon_sentence久布白落実の言っていることは、保守的英国人がサフラジェットをアングロサクソンの恥と感じたのと同じ、イスラム圏の原理主義者が肌を晒すような女たちを民族の恥と感じるのと同じ、ロシアの正教徒がプッシー・ライオットをスラブ民族の恥と感じるのと同じです。

民族主義の是非は問うまい。ここでは、それがフェミニズムなのか否かです。民族主義に則ったフェミニズムもありえますが、久布白落実は違います。

民族の恥とされるような女たちの側に立つのがフェミニズムじゃないんですかね。女は「私」として生きていいというのがフェミニズムであって、民族の規範を強いるのがフェミニズムであるとは私には思えません。

比較的最近の事例では、Photoshopで加工した自分の写真を整形であるとしてインスタグラムで公開していたサハール・タバル(Sahar Tabar/これはネット上の名前)など、数名のイラン人女性が逮捕された事件がありました。

民族の恥だとして逮捕を肯定するようなイスラム原理主義の婦人団体があったとして、この団体が、自ら売春する女を憎悪して、法律で罰することを主張することがフェミニズムに見えますか? ありえないでしょう。

 

 

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