松沢呉一のビバノン・ライフ

ポルノ・コレクターだったシュトライヒャーは自身の性的欲望をユダヤ人に転化した—V.E.フランクル著『夜と霧』[付録編11](最終回)-(松沢呉一)

母性に基づく「女子供バイアス」は戦後のドイツに引き継がれ、現在の日本でも維持されている—V.E.フランクル著『夜と霧』[付録編10]」の続きです。

 

 

 

48万人の読者が支持した反ユダヤ・ポルノ新聞

 

vivanon_sentence前回確認したように、ナチスドイツを代表する反ユダヤの新聞「デア・シュテュルマー」は、必ずしもナチス高官らの支持を受けていたわけではなく、とくにゲーリングが嫌っていて、これが発行人であるユリウス・シュトライヒャー失脚の一因になります。

「水晶の夜」を筆頭に、ナチスはしばしばヒトラーの意思ではないところで暴走していくわけですが(国民の反応を見て追認していくので、「暴走」というより「先行」か)、「デア・シュテュルマー」もそのひとつと言っていいかもしれない。

「デア・シュテュルマー」の強みは読者の支持を得ていたことです。最大発行部数48万部。新聞の部数としてはたいしたことがないと思ってしまうのは新聞が寡占化された日本だからです。ドイツでは、あるいは他の国でも、新聞は各地域で政党や政治姿勢ごとに発行されていて、48万部は当時のドイツで5本の指に入る部数だったのではなかろうか。

いつの時代もわかりやすいエロは受けるのです。わかりやすいエロがいけないのではなく、わかりやすいエロでデマを拡散し、ユダヤ人迫害、追放を扇動したことが問題です。

本人の能力が低いため、十分な弁論を展開できなかったことも理由になっていましょうが、ユリウス・シュトライヒャーがいかにナチス礼賛、ヒトラー礼賛をし、ユダヤ人を貶めることで間接的にユダヤ人迫害をサポートしたとしても、死刑判決は重すぎて、ニュルンベルク裁判当時もそういう批判は出ています。

Der Stürmer, an Antisemitic Newspaper

 

 

ハンス・フリッチェとユリウス・シュトライヒャーの違い


vivanon_sentence一方で、宣伝省の報道局員として、宣伝放送の主席解説者であったハンス・フリッチェ(Hans Georg Fritzsche)は、下馬評通り、無罪になっています。

ニュルンベルク裁判に対してソビエトは「全員処刑すべし」という姿勢であり、他の連合国内でもそういう意見は強く、収容所単位の裁判で看守やカポまでがあれほどまでに重い判決が出ているのですから、その比較で言えば地位的責任から全員死刑でもおかしくはないと私も思うのですが、収容所の判決が重すぎるのです。

ニュルンベルク裁判は「公正な裁判である」とアピールをする意図があったため、無罪もいた方がよく、もっともそれに近いのがハンス・フリッチェでした。ゲッベルスはヒトラーとともに自決したため、代わりに宣伝省代表として引っ張りだされた小物です。

対してシュトライヒャーの死刑は重すぎますが、シュトライヒャーはナチスの管区で重要ポストに就く古参党員であり、1933年以降具体化していくユダヤ排斥を主導した人物ですから、ただの一ジャーナリストではありません。極刑が適切かどうかはなお議論はあるとして、そこにおいて責任は負うでしょう。

また、「デア・シュテルマー」の影響力は絶大で、ドイツ全土に「デア・シュテュルマー」用の掲示板が作られて、購読していない人たちがそれを目にしていて、教科書にまで子どもたちが「デア・シュテルマー」を読んでいる挿絵が掲載されていました(山本秀行著『ナチズムの記憶』による)。とうていただの民間メディアの発行人ではありません。

山本秀行著『ナチズムの記憶』によると、下品な内容だったために、親たちが憂慮して、ゲシュタポが内容の一部を掲載禁止にしたそうです。掲示板に出すことを禁止したという意味でしょう。

ウィキペディアより「デア・シュテュルマー」の掲示板

 

 

ユダヤ人によるポルノをコレクションしていたシュトライヒャー

 

vivanon_sentenceゲシュタポでさえ眉をひそめるくらいで、ユダヤ人にドイツ人の少女が犯されたなんて怪しい記事が多数掲載されたポルノまがいの紙面だったのですが、シュトライヒャーはポルノをコレクションしていて、これはユダヤ人から買い入れたものです。

 

 

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