本をなぞることと本を考えること—バルドゥール・フォン・シーラッハの依存的思考[1]-(松沢呉一)
読書週間で気づいたこと
GWの直前にパソコンが壊れて、「困ったなあ」と途方に暮れながら、一方では快適な部分もありました。
「ポストコロナのプロテスト」を終えて以降も、どうしても気がかりで、各国の様子を調べてしまっていたのですが、それができなくなりました。カタルーニャやバレンシアの音楽も聴けません。
実のところ、私の周辺ではここに来て再起不能なところに追い込まれた人たちやトラブルに巻き込まれた人たちが続出していたのですが、そういった話も知らないで済んでました。
なにより「ビバノン」の更新からも逃れられて、溜まっていた本を読み続けることができました。パソコンなき生活がもたらした幸福な時間。
1日1冊以上のペースで読んでいて、「学生時代みたいだな」と思っていたのですが、10日ほど続いたら、「数をこなす読書は若いうちだけでいい」と改めて実感しました。他にやることがないのでそうなっていただけで、数をこなしたかったのではないのですが、わからない点を検索しながら読むということができなかったのです。
ナチスドイツに占領されていた時代のフランスについての本を読んでいて、途中で何も理解できていないことに気付きました。もちろん、表層は読めてます。一般に思われている「占領下でのフランス人たちはパルチザンとなってナチスと闘ったのだ」というのは一部の話であり、「少なからぬフランス人はナチスに協力し、多くのフランス人はただ沈黙したのだ」と。
そんなことはタイトルと表紙の解説を見ればアホでもわかりますが、具体的に誰が何をしたのかはまったく頭に残っていない。この本についてのクイズを出されても5点くらいしかとれそうにない(100点満点)。
ドイツ国内に関してはけっこうな蓄積がすでにあるので、その蓄積の範囲内のものであれば淀むことなく読み進めることができるのですが、フランスについては蓄積がなさすぎて、知らない名前や地名が次々と出てきて、わからないまま読んでいたら、「なにもオレは理解できていないぞ」というところに至りました。
この時に気付いたのですが、インターネットが登場して以降、私の本の読み方は決定的に変化しています。電車の中で読む場合でも、疑問点には付箋をつけておいて、家に帰ってから検索をする。
検索をして理解しながら読むことができなかったため、何も頭に入っていないことに気付いてしまって、読書週間は終了しました。
※まるで読めてないのに途中まで読んだ気になっていた渡辺和行著『ナチ占領下のフランス—沈黙・抵抗・協力』。そのうち最初から読み直します。
独裁を許さないために
表面をなぞるだけなら半日で読める本でも、理解しながら読むとまるまる1日かかったり、時には1週間かかったりするのですが、そうしないと自分の血や肉にはならない。理解していないまま、「読んだ」という達成感を得るだけです。ここが本の怖いところです。文字面をなぞっただけでも達成感が得られてしまう。
本を読んだ達成感を求めるだけでいい本もありますし、純然たる娯楽、時間潰しの読書もあって、本の読み方は人それぞれであり、状況次第です。私は小説でも正確に理解しようとする時は人名リストを作ったりしますが、小説であれば誤解が生じていたところでさして困ることはない。
しかし、売らんがため、あるいは性的欲望の発露として、あり得ないことを入れ込んでくる人たち、虚偽を入れ込んでくる人たちがいますので、それを見抜くためには調べたり、考えたりする時間を置いて読んだ方がいい。とくにそれについて外に向けて何か言うなら、時間をかけて読むべきだと思います。それが読む人の責任。というより外に向けて発言する人の責任か。
あれだけわかりやすい問題点が数々ある『夜と霧』をただ褒め称える人たちの群れを見ると、「無責任だなあ」と思わないではいられません。
「権威のある本を読んだ私」「話題の本についていけている私」を得るための読書、そこにあるものをただなぞる読書では読み取れないことがあることを認識しておいた方がいいと思います。
ナチス関係のものを読んでいると、しばしばナチスを生まないための知恵として出てくるのは「自分の頭で思考して、自分の意思で判断する」という教えです。
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