松沢呉一のビバノン・ライフ

文法と文学は別・論理と感動は別—「は」と「が」の違い[中]-(松沢呉一)

性教育に道徳は不要・国語教育には文法が必要—「は」と「が」の違い[上]」の続きです。

 

 

国語で感動を教える必要はない

 

vivanon_sentenceGWに実施した個人的「読書週間」月本洋著『日本語は論理的である』を読みました。これも買ったまま積んであった本です。

面白かったのですが、読書週間の浅い読み方なので、考えるべき点を考えきれてなくて、消化できていない点が多々残ってます。

しかし、完全に同意できた点があります。

 

 

萩原朔太郎の詩を読ませたり、文章で教師の解釈を生徒に押しつけたりする暇があれば、ほかにやるべきことはいっぱいある。そんな時間があれば、作文の練習に割くべきである。作文というよりは、論理と呼ぶほうが適切かもしれない。自分の考えを、筋道立てて他人に説明する訓練が日本の教育では欠けている。他人に筋道立てて説明できないということは、自分自身にも説明できないということ、すなわち、自分でも考えがまとめられないということである。

(略)

外国では、論理や議論の訓練を、かなり小さい時から学校教育で行うが、日本の学校教育にはいまだにない。国語の授業の内容を見直し、日本語で考える訓練をする必要がある。日本語は十分に論理的なのであるから、日本語の論理を自覚的してそれを伸ばすべきである。

こうした主張は筆者だけのものではない。同様のことを言語学者の永野賢が述べているので紹介する。永野は『感動中心の文学教育批判』(永野 1998)の「はしがき」で次のように言う。

国語教育は国語を正確に理解し的確に表現する能力——国語の力——を養うことを目的にするものであるが、その主軸は文法教育であるというのが、私のかねてからの主張である。(中略)ここに「文法」というのは要するに「言語の論理」である。(中略)

そういった私の考えの根底には、現在に至るまで国語教育の主流と考えられているいわゆる文学教育への疑念がある。私はここ数年ずっと文学教育なるものの主観性を排除すべきことを説いてきた。近年、国語教育界では「感動中心の文学の授業」から脱却して「言葉の力をつける授業」こそを重んずべきだとの声が大きくなってきたようである。

 

 

「中略」は(月本洋の)原文ママです。

まずは「文法と文学」「論理と感動」を分けろってことですね。これ自体が論理を必要とする考え方であり、論理がないからこんな国語教育がなされてきたのかも。

答えがわかって感動することはあるでしょうが、算数の問題にいちいち感動する要素を入れる必要はない。実験がうまくいって感動することはあるでしょうが、感動を前提とした科学実験をする必要はない。スポーツで記録が伸びたり、相手に勝ったりすれば感動することはあるでしょうが、体育で感動を教えるから感動するわけではない。

国語も同じで、結果としての感動はあっていいとして、感動を目的にする必要はない。むしろ目的からは排除していいのではないか。

それほどまでに論理は大事です。意思の表明、人と人との会話や議論、相互理解といった人間にとって不可欠な技術を支えるのは論理です。しばしば宗教は一般とは違う論理を持つので議論が成立しにくく、こじれるわけですが、それでも対話が成立することがあるのは共有される論理もあるからです。

 

 

感動はマンガやアニメで学べる

 

vivanon_sentenceもうひとつ重要なのは事実です。間違った事実をもとに議論しても、すべてがひっくり返りかねない。その事実の重みは理科だったり社会だったりで学びます。しかし、社会でも理科でも数学でも論理が欠落していると前に進めず、対話が成立しません。

すべての根幹になる論理を重点的に教える科目が必要なのです。数学もおもに論理ですけど、言語的論理は国語の授業が適切です。

感動は家に帰って小説を読んだり、マンガを読んだり、アニメを観たりすれば十分。それ以上に必要であれば道徳の時間にでもやればいい。

 

 

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