なぜ貴重な記録が世に出るまで66年もかかったのか—ルート・マイヤーとギュンヴォル・ホフモ-(松沢呉一)
ノルウェー語のg音は日本語のが行とほとんど同じとされていて、Gunvor Hofmoはグンヴォル・ホフモとしているものが見られますが、guの場合はギュに近寄るので、ギュンヴォル・ホフモとしました。日本ではほとんど馴染みのない人なので、どっちでもよいかと。
ルート・マイヤーの日記
日本語版Wikipediaの項目もないくらいで、日本では全然知られていませんが、オーストリア生まれのユダヤ人で、ルート・マイヤーという人物がいました。
1920年、ウィーンで生まれますが、1938年オーストリアがドイツに併合され、水晶の夜はウィーンにも及び、妹は英国に逃げ、1939年に彼女はノルウェーに逃げます。ノルウェーの学校に通い、ギュンヴォル・ホフモと親友になります。ギュンヴォル・ホフモは戦後ノルウェーを代表する詩人の一人になった人物です。
美術モデルなどをしながら彼女はギュンヴォル・ホフモと共同生活をし、各種の学校に通い続けますが、ナチスドイツによってノルウェーは占領され、1942年に逮捕されてアウシュヴィッツに送られて、3ヶ月後に殺害されました。
ヒトラー独裁の年であり、父親が病死した年でもある1933年から彼女は日記をつけていました。日記はアウシュヴィッツに送られる前まで続きます。
その日記や手紙はギュンヴォル・ホフモが保存していました。1995年にギュンヴォル・ホフモが亡くなって、詩人のヤン・エリック・ヴォルドが遺品を整理している時に日記を見つけ、その内容に感銘した彼は、英国にいる妹を探して手紙を見せてもらい、それらの手紙と日記をまとめて、2008年に出版されています。『Das Leben koennte gut sein”: Tagebuecher 1933 bis 1942』がそれです。「人生は良いかもしれない: 1933年から1942年の日記」という意味。
この本はノルウェーで「ノルウェーのアンネ・フランク」と激賛され、イェンス・ストルテンベルグ・ノルウェー首相は彼女の名前を挙げて、ノルウェーがホロコーストに加担したことを謝罪する演説をしています。
これほどまでに賞賛された日記がこれほどまでに出版されることが遅れたのは、ギュンヴォル・ホフモが隠匿していたわけでも、さぼっていたわけでもなく、彼女は1953年にノルウェーの最大手出版社ギルデンダル・ノルスク・フォルラグに持ち込んで、断られています。
ルート・マイヤーとギュンヴォル・ホフモの関係
ルート・マイヤーとギュンヴォル・ホフモは恋人と言っていい関係でした。日記の中にもそれを示唆する部分があって、ギュンヴォル・ホフモは戦後自分がレズビアンであることを公開していますが、2人がそういう関係であったことまで公言していたのかどうかは不明。
ギュンヴォル・ホフモはルート・マイヤーが消えたあと鬱病となり、以降、死ぬまで精神疾患で苦しみ、長期の入院生活を送った時期もあります。
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