岩野喜久代著『大正・三輪浄閑寺』を再読した-(松沢呉一)
『大正・三輪浄閑寺』を読み直す
投込寺・浄閑寺の資料としてはまるで役に立たないながら、小説としては面白く読めたため、3回にわたって取り上げた岩野喜久代著『投込寺異聞』でありますが、あの中に書いたように、この本の前に岩野喜久代は、同じ青蛙房から、『大正・三輪浄閑寺』(1978)を上梓しています。
こちらも投込寺・浄閑寺の資料にはならなかった記憶があります。タイトルに偽りありで、浄閑寺についてはほとんど出てこなかったのではなかろうか。
いらん本をタコシェで売るために整理をしているわけですが、その作業中に『大正・三輪浄閑寺』を見つけて、読み直してみました。『投込寺異聞』は小説集であったのに対して、こちらは自伝的回想録ですが、こちらもまた飽きずに読み通せました。
先に結論を言っておくと、投込寺・浄閑寺の資料としてはやはりほとんど役に立たず。大正14年(1925年)、浄閑寺の住職である岩野真雄と結婚した前後に出てくるだけで、浄閑寺の記述自体が少なくて、わずか数ページのみです。
安政の大地震の時、吉原で遊女たちの焼死者がおびただしい数にのぼったのは、木戸を閉めて遊女たちを逃さなかったからで、寺にはこの時の焼死者たちの過去牒が別冊にあるほどである。
これら安政震災の横死者たちをに一人一人土葬にすることは不可能なので、本堂新手に大穴を堀り、一緒に埋葬したことから、世に“投込寺”という名が喧伝されたとも言い、或いはまた、吉原で引き取り手のない遊女の死体を投げ込むように、浄閑寺にかつぎ込んだことから“投込寺”と称したとも伝えられている。
どうやら関東大震災の時の矯風会によるデマのルーツは、それ以前に原型があったかもしれないのですが、なにしろ著者は関東大震災のあと嫁入りしてきていますから、その内容はあまり信用できないと見ていいでしょう。
大地震の際には遊女に限らず、多数の住民が亡くなっています。「逃げられては困る」という意識が働いて、裏の木戸を閉じた可能性もゼロではないにしても、遊廓内にはさまざまな住民がまた生活をしているわけで、その人たちも逃げられなくなります。このことと、過去帳が別冊にあることとは無関係であって、多数の人が亡くなったことを示しているだけです。
また、これについてのヒントになるような記述が、赤坂の頃の話として出てきます。
関東大震災までは中流家庭でも成年女子の独り歩きは許さなかったから、まして上流ともなれば、必ずお付女中が従ったものだ。それ故、家族一人一人に女中を雇う金持ちも少なくなかった。大正初期まで、上流の女子の通学するお茶の水高女などでは、お供の女中がお嬢様の下校まで待機する待合室があって、桃割れ姿の女中が静かに裁縫などして、時を過ごしたものだ。
お茶の水高女はお茶の水女子大の前身ですが、お茶の水はふたつの学校からなり、ひとつはこの女学校で、もうひとつが師範学校です。著者は師範学校に進みます。こちらは勉強が厳しく、また風紀も厳しく、男子との噂が流れるだけでも退学であり、小説も読んではいけない。対して女学校の方はお嬢様が多く、成績はそれほどよくはなかったようです。
一人で出歩いてはいけなかったのはお嬢様だけでなく、世間一般そういうもの。妓楼が、親から預かった娘を一人で外出させなかったのはその点でもおかしくはない。これをもって「娼妓には一人で外出する自由もなかった」と言い出すと、お嬢様は全員同じになってしまいます。
本書に掲載された鴇田幹による挿画。以下同
梅酢をかけただけのピンク色の飯
浄閑寺については以上。それ以外に気づいたいくつかの点を書き残しておくとします。この本においては枝葉末節ですが。
著者は明治36年生まれ。広島県江田島海軍兵学校内の官舎で生まれ育ちます。父親は兵学校の英語教師でした。決して貧しくはなく、さりとて裕福でもない家庭でしたが、官舎に住む人々のプライドのようなものがあって、長屋の貧しい人々との交流を親は歓迎しませんでした。
長屋の人たちの様子や自身の家の様子など、当時の人々の生活ぶりを詳細に記述しています。
明治時代だと、官舎でも水道は通っておらず、井戸水です。電気は通っていても、電球が使える程度で、外には街灯はありません。街灯があったのは都市の繁華街だけ。外を歩く時は提灯です。
官舎に住む著者たちは、七輪でサケを焼いて食うくらいの動物タンパクは摂取できていました。
瀬戸内海の小舟に著者が乗った時、船頭さんがピンク色のご飯を食べているのを見て、「あれはなんだろう」と注目します。色はついていながらも、おかずはなく、船頭さんはうまそうにそれをかきこんでいる。
あとになって梅酢をかけたご飯だったのだと気づきます。梅干しやシソくらいまぶしてあってもいいのにと思いましたが、貧しい庶民にとっては米が食えるだけで贅沢であって、塩をかけるだけで喜んで食べたことを著者は記述しています。
(残り 1978文字/全文: 4061文字)
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