松沢呉一のビバノン・ライフ

人々がこうも自由を求めているのに、なぜ自由は簡単に失われるのか—個人の自由は全体主義に負けがち[上]-(松沢呉一)

 

プロテスターとヒジャブ

 

vivanon_sentence

イランで捕まった夢を見ました。捕まった瞬間は覚えていないのですが、観光ビザでデモに参加したのはまずかった。体育館のようなところに入れられ、中には居酒屋もあって、そんなに環境は悪くなかったですが、何をされるかわからないのが怖かったです。みんな日本語を話していたのに、どうしてイランだとわかったかと言うと、「ここはイランだ」と銃を持った治安部隊が言ってましたし、居酒屋にいた女がヒジャブをしてましたから。

こんな夢を見たのは、イランのことを考え過ぎであるとともに、昨夜、山手通りを赤信号で渡ったら、目の前に警官がいて、「赤信号を渡ったらダメじゃないですか」と怒られたついでに職質されたことも影響していそうです。赤信号で渡るには、山手通りは広すぎましたかね。

ウクライナ戦争やロシア国内の混乱については報道機関でも個人でもいっぱい取り上げているのに対して、イランのアンチ・ヒジャブ・プロテストについては日本ではさほど取り上げられてないので、引き続きこっちをやっておきますが、今回はそこを切り口にして、その先のテーマに進みます。

米国はイランに対する制裁を発表し、イラン国内では殺されたニカ・シャカラミサリーナ・イスマイルザデの2人の16歳(前者は17歳としているものも多いですが)の追悼プロテストがこれまで以上の規模で計画されているとのこと。たぶん今日か明日じゃなかろうか。また人が死にそうですが、この過程は避けられないのでしょう。

という緊迫した状況が続いていますが、改めてヒジャブに注目してみます。

 

 

ここに出ている映像はすべてカナダですが、わずかにヒジャブをした人がいるだけです。国外だとムスリムではない人たちの率が上がりますし、ムスリムでもヒジャブをしない人が増えます。繰り返し書いておきますが、ヒジャブはムスリムにとって欠くべからざる必須の習わしというわけではありませんので、イスラム圏外に出ると比較的ゆるくなります。

ふだんはヒジャブをしている人でも、この場ではしにくいかと思います。場違いにも思われかねないのに、ここでしている人たちが好きです。ヒジャブの強制はくだらないですが、強制されないのにするのは自由。皆がマスクをしている場でしない人、皆がマスクをしていない場でしている人が好きなのと同じ。それぞれの人がそれぞれの判断を実行できる場が居心地のいい場です。どちらに傾いても、「着用しなければならない」「着用してはならない」は不自由です(フランスなどの公立学校でヒジャブ禁止はまた別の論理です)。

 

 

選択できることが自由

 

vivanon_sentenceイラン国内ではもっとヒジャブをしているプロテスターが増えます。女学生たちにもしているのがいます。

 

 

破っている写真はハメネイ師、二人が並んでいる写真はハメネイ師ホメイニ師か? 現役の国家元首が大々的に教科書に出ているんですね。北朝鮮で言えば金正恩戦前の日本で言えば天皇の写真を破くようなもので、おそらくイランでは不敬罪みたいな法律があるのではなかろうか。宗教警察に見つかったら殺されます。

ヒジャブの強制を否定する場でヒジャブをする事情はさまざまで、「公道で顔を晒すのは危険なので、覆面代わり」「長年の癖で、頭部を隠していた方が落ち着く」「親に、“デモに出てもいいけど、ヒジャブはしなさい”と言われた」など。

どれでもいいですけど、「周りはどうあれ、私はする」という姿勢が大事ですし、「私はするけど、しない選択も認める」という姿勢も大事。もちろん、これは「私はしないけど、する選択も認める」とパックになっています。

 

 

next_vivanon

(残り 1014文字/全文: 2638文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ