松沢呉一のビバノン・ライフ

弱者というアイデンティティをエゴの実現に利用する論—なぜ車椅子インフルエンサーは車椅子クレーマーになったのか[中編]-(松沢呉一)

ありがたさの重荷—なぜ車椅子インフルエンサーは車椅子クレーマーになったのか[上編]」の続きです。

 

 

「ありがたさの重荷」から逃れる方法

 

vivanon_sentence前回見たように、障害者が「ありがたさの重荷」を極力感じないでいられる社会が理想です。映画館でも、銭湯でも、飲食店でも、誰の手も借りずに、事前連絡も必要とせず、健常者と同じく思いついたらすぐに行ける社会。

そこに向かって、視覚障害者のために点字ブロック、音声ガイド付きの信号機を設置し、券売機や商品に点字表示をつけるなどし、車椅子利用者のために段差を減らし、駅にエレベーターや階段昇降機を設置してきました。銭湯だって、入口をスロープにしたり、手すりをつけたりしてます。映画館も車椅子のスペースを設置したりしてます。

そうしたところで、人の手を借りなければならないことはまだまだあります。その時に感じる負い目をどう減ずるかについてはいくつかの考え方があります。

できるだけ他人を煩わせないようにすることで対処する人もいるでしょう。中嶋涼子の件で、「どうしてヘルパーに頼まないのか」と言っている人たちが多くて、映画館に負担をかけるくらいなら、そうすべきだと私も思います。ただ、ヘルパーに対しても、申し訳なく感じる人もいます。友だちや家族に頼んだ方が楽な人もいるでしょうが、そっちの方が気を使う人もいるでしょう。

だから、一人で行動したい人がいるのは理解できるのですが、一人で行動することで映画館に過重なサポートを当然のことかのように求めたり、バスの運転手に抱っこして欲しいと甘えて、運転手がぎっくり腰になるのはあまりに傲慢。車椅子ハラスメントです。

決められたルールも破る車椅子アウトサイダーでもあって、こういう人物を生み出すのが「強者が弱者を手助けするのは当然のことであり、ありがたいと思う必要はない」といった意見です。こういう考えによって、障害年金を得ることは恥じることではないと思えるのはいい。税金でヘルパーを頼むことの抵抗感をなくすのもいい。

しかし、過剰な要求を正当化すべきではありません。ケージに入れたネコを新幹線に持ち込むことは許されるとして、障害者だからと言って、ケージからネコを出すことが許されるわけではありません。このことは誰でも理解できましょうが、中嶋涼子は理解できませんでした。自分のエゴのために、アレルギーの人に迷惑をかけることも考えられない。

こういうペットバカが出てくるので、飛行機にペットを乗せられないようになってます。障害者であろうと健常者であろうと、こういう人が出てきて、どっちも等しく叩かれていい。

そればかりか、授乳のために新幹線の多目的室を使いたい人のことも考えられない。気分が悪くて横になりたい病人のことも考えられない。多目的室は「私だけが多目的に使える場所」だと信じて疑っていない。

✳︎中嶋涼子のXアカウント

 

 

弱者を盾にしたエゴの増長

 

vivanon_sentence中嶋涼子がそうなったのは、もともとの性格もあるでしょうが、車椅子インフルエンサーなる「資格」を得て増長したのでしょうし、彼女を持ち上げる人たちがこの増長を手伝いました。

「強者が弱者を手助けするのは当然」という言葉を無条件に自分に当てはめ、無制限にこれを拡大すると、相手の事情を想像することもせず、車椅子に乗ってない人はすべて自分に尽くすのが当然と考えます。

もちろんすべての弱者がそうなるはずはないのですが、「弱者という強者」を最大限利用する人たちがいます。「ビバノン」に書いた例で言うと、部落解放同盟の「朝田理論」です。朝田理論を車椅子利用者に当てはめると、「車椅子利用者が不利益と不快を感じさせられたらすべて差別」です。人員がいない銭湯でも映画館でも飲食店でも、利用できないのはすべて差別。その結果、相手がぎっくり腰になっても差別の解消のためだから相手は甘受しなければならない。階段で車椅子を落として怪我をしても差別。当然賠償金を払うべきとなります。

 

 

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