「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

【無料記事】「限界」など、とっくに超えている ~ 6月19日沖縄「県民大会」に寄せて

 6月19日に那覇で開催された「県民大会」に関して、地元紙の「琉球新報」に私の雑感を寄稿した(27日付紙面)。
 これに若干の加筆・修正したものを以下に掲載する。

 大きなうねりを感じた。いや、突き刺さるような形で迫った来た。夏の陽射しで炙られた皮膚と同じように、私のなかで何かがぷつぷつと弾けた。鼓舞されたわけでも気持ちが昂ぶったわけでもない。ただひたすら悲しくて、悔しくて、腕をぶんぶん振り回しながら、その場を駆け回りたくなった。

 「怒りは限界を超えた」──県民大会の会場に集まった人々の声は、その場で揮発することなく、いまでも耳奥で響いている。あれは6万5千人の悲鳴だ。沖縄に住む人々の慟哭だ。

 本当は「限界」などとっくに超えているはずなのだ。沖縄はずっと、ないがしろにされてきた。「弾除け」として利用されてきた。「処分」という名で同化を強いられ、戦争に巻き込まれ、基地を押しつけられてきた。戦後といえど日本国憲法さえ及ばなかった時期がある。不平等と不正義の衣をまとった「国家」は、これでもまだ足りないとばかりに沖縄から奪い続ける。主権と人権と、そして、いのちを。

 犠牲者の墓碑銘を刻み続けてきた沖縄は、「限界」どころか、怒りの海を決壊させてもおかしくない状態にあるはずだ。

 県民大会を取材してるとき、東京に住む編集者から電話が入った。私が沖縄にいることを伝えると、彼は「沖縄は闘っていますね」と感心したような声をあげた。彼は沖縄の置かれた状況に心を痛めているし、少なくとも新基地建設に反対しているし、間違っても沖縄を貶めるような人間ではない。だが、「闘っている」という言葉がずっと引っかかっている。沖縄は、沖縄の人々は、望んで「闘って」いるわけではない。「闘う」ために生まれてきたわけでも、生きているわけでもない。

 壇上でシールズ琉球の元山仁士郎さんは、こう訴えた。

 「この島に住む人は普通に生きていきたいだけなんです。もう二度と県民大会など開くことのないように願いたい」

 こんなにも悲痛な願いって、あるか。哀切に満ちた希望って、あるか。会場の中にはすすり泣く人の姿もあった。私は汗ばんだ手でこぶしを握り締めた。

 炎天下にこれだけ多くの人が駆け付けたのは、ファイティングポーズを自慢するためではない。行かざるを得なかったのだ。「闘い」は強いられているだけなのだ。

 同じく壇上で、玉城愛さんは「いま、私は幸せじゃない」と言って、言葉を詰まらせた。

 人生の中でもっとも輝かしい季節を生きる若者に、こんな悲しみを与えてしまっていいのか。

 そういえば、この日の沖縄も鮮やかな色彩を見せていた。空はどこまでも青く、太陽は眩い光を放ち、一陣の風に緑は揺れた。沖縄がもっとも輝く季節に、沖縄は滂沱に濡れた。

 強いられた理不尽により、沖縄は流れ落ちる汗よりももっと多くの涙を流してきた。

 「本土」に住む私も、あらためて思った。日本社会で生きていく以上、私は、私たちは、すべてが「当事者」である。誰かの犠牲の上に成り立つ社会なんて、冗談じゃない。 

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