「地獄谷」で何が起きたのか━━関東大震災の直前に起きた中津川朝鮮人虐殺事件
中津川の虐殺現場
■「信濃川を頻々流れ下る鮮人の虐殺死体」
吊り橋を中ほどまで渡り、おそるおそる下をのぞき込んだ。岩に弾かれた渓流は各所で白い泡を残しながら、谷間に青い筋を描いていた。
こうした場所に立つと、ついつい最悪の場面を思い描いてしまう。誰かに背中を押されたら。足首をつかまれ、放り投げられたら。私は手足をバタバタさせながら河原に向かって落ちていく自分の姿を想像した。
吊り橋の不安定さが、生死の境界を意識させる。ましてや眼下の河原は、人の命が消えた場所だった。
私が訪ねたのは新潟県津南町の山間部だ。「穴藤地区」が正式名称だが、かつては険しい崖に挟まれた谷間の風景から、「地獄谷」とも呼ばれていた。
日本でも有数の豪雪地帯である。深い谷間を縫うように中津川(信濃川水系)の急流が走る。
この「地獄谷」で、多くの朝鮮人が殺された。
関東大震災の前年、1922年のことだ。
「信濃川を頻々流れ下る鮮人の虐殺死体」──そのような見出しでこの虐殺事件を報じたのは「讀賣新聞」(同年7月29日付)だった。
虐殺事件を報じる「讀賣新聞」記事
記事は「北越の地獄谷と呼ばれて」「逃げ出すと殴り殺し」「山中にも腐乱した死体が転がって」「身體に大石を結び付け断崖から」といったおどろおどろしい小見出しで飾られる。
同紙記事などによると、事件のあらましは次の通りだ。
当時、中津川上流にあたるこの一帯では、電力需要の急増に伴い、水力発電所の建設工事が盛んにおこなわれていた。事業主体は信越電力である。同社は東京電灯(関東最大の電力会社で、東京電力の前身)の子会社で、長野・新潟両県山間部での水力発電を受け持っていた。
工事を担当した日本土木、大倉組(共に後の大成建設)をはじめとする建設各社は手配師を通して労働者を集め、地元住民の家屋などに分宿させた。
集められた労働者の多くは朝鮮人である。全労働者約1000人のうち、800人近くが朝鮮人だったという。彼らは水力発電所本体の建設だけでなく、資材運搬用のトロッコ列車の敷設工事にも従事していた。
ところが、山間部における過酷な自然環境での工事は、労働者たちにとっては想像以上の重労働だった。そればかりか、朝鮮人労働者を恐怖に陥れたのは、手配師や現場工事監督などによる私的制裁(リンチ)である。仕事が遅いなどの理由による監督者の暴力は日常茶飯事だった。いわゆる「タコ部屋労働」が強いられていたのである。
地区内の道路。かつてここを工事用のトロッコ列車が走っていた。
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