「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

【追悼・無料記事】野中広務の「沖縄への思い」とは何であったか

 元衆院議員の野中広務氏が1月26日夕、京都市内の病院で死去した。
 野中氏に関しては以前にも触れたことがあるが、記事の一部を変えたうえで再掲したい。

 週刊誌記者時代に何度か野中氏を取材する機会があった。剛腕、狙撃手、寝業師──様々な異名を持つ野中氏であったが、政治記者でもない私は、いつも軽くあしらわれていたように思う。私にとっては、権力維持のためには手段を選ぶことのないコワモテの政治家にしか見えなかった。
 政界を引退してからはハト派的な発言が目立った。講演や著書で、自民党の右傾化を嘆き、日本社会の差別的体質を批判することも少なくなかった。

 初めてじっくりと話をすることができたのは、実は昨年5月のことだった。
 その少し前(4月末)におこなわれた沖縄県うるま市長選で、自民党選挙対策委員長(当時)の古屋圭司氏が野党候補を批判する文脈で、「市民への詐欺行為にも等しい沖縄特有のいつもの戦術」とフェイスブックに書き込んだ(参照)。まるで沖縄県民が詐欺の常習犯であるかのような表現である。
 これについてどう思うか──沖縄の基地問題にも深く関わってきた野中氏の見解を聞くために、私は京都市内の事務所に足を運んだのだ。
 いま、この時期に会うことができてよかったと思った。それほどに野中氏は「老い」の影をまとっていた。たたらを踏むような足元が、年齢を感じさせた。それでも声には張りがあった。有り体にいえば、野中氏は怒っていた。

「どうしようもないな」

 突き放したような言い方で発言を批判した。
 さらにこう続ける。

「世代が変わった、ということだけで片付けるわけにはいかないだろう。まったくひどい発言だ」

 雑談しているときにはソファの背もたれに身を預けるような姿勢だったが、話題が沖縄のことに転じてからは、両手を前で組み、上半身を乗り出すようにして熱く語った。その前のめりの姿勢が印象に残っている。

「最近では辺野古の基地移設をめぐっても、国は裁判で勝った瞬間、すぐに工事を始めた。オスプレイの事故に際しても、事故原因がはっきりしていないにもかかわらず、修理を終えたからと言って、あっという間に訓練が再開される。国はそれに対して何も言わない。沖縄の人々の苦痛をどれだけ理解しているのか」

 野中氏は、やはり沖縄との関係が深かった故・山中貞則氏から、沖縄を「思う」大切さを教えられたという。

「琉球処分以降、日本は沖縄にずっと迷惑をかけてきたのだと山中さんは訴えておられた。だからこそ、日本人の責任として、沖縄のことを常に考え続けてきた」

 山中氏は初代の沖縄開発庁長官を務めた。1971年の国会で、沖縄関係法案の趣旨をこのような言葉で説明している。

「県民への『償いの心』をもって、事に当たるべきである」

 野中氏はこの言葉をずっと胸に刻んできたという。
 それにしてもなぜ、沖縄にこだわり続けるのか──。私がそう問うと、野中氏は「沖縄には、どうしても忘れることのできない思い出があるんだ」と答えた。

 60年代前半のことだったという。当時、京都府町村会会長を務めていた。京都出身の戦没者慰霊塔を建設するため、野中氏は初めて沖縄を訪ねた。
 沖縄戦の激戦地だった嘉数の丘にタクシーで向かった。宜野湾の街に入ったところで、タクシーの運転手がぽつりと漏らした。

「このあたりで私の妹が殺されたんです」

 運転手は泣いていた。
 タクシーをそこで停めてもらい、野中氏は手を合わせた。沖縄戦の傷跡を間近で目にしたことで言葉を失い、ただ手を合わせ、祈ることしかできなかったという。

「そのとき運転手さんが話してくれたんです。妹さんを死に至らしめたのは米軍ではなく、実は日本軍だったと」

 運転手はうなだれていた。その悲しげな表情が「いつまでも頭から離れない」と野中氏は話した。それこそが野中氏にとっての沖縄の原風景、原体験である。
 だから国会議員になってからも沖縄通いを続けた。政治的な立場を超えて、様々な人から話を聞いた。米軍が何か問題を起こしたときには、頭を下げて回った。
 97年、鳥島で米軍が劣化ウラン弾を使用したことが発覚した。米軍は、その事実を2年も経過してから国に伝えてきた。政府はさらに、その1年後に沖縄へ伝えた。「ないがしろにされている」と沖縄県民の多くが憤った。
 野中氏は沖縄に飛んだ。多くの記者が見ている前で、大田昌秀知事(当時)に謝った。

「まるで罪人のような気持ちになりました。しかし、それは当然のことだった。そうすることが、沖縄に多くの犠牲を強いてきた政府の責任でもあるんです」

 いま、政府には、そこまで沖縄に思いを寄せる者は見当たらない。国益のために基地の過重負担を当然だと捉えるばかりか、そもそも足繁く沖縄へ通う熱意すら存在しないではないか。冷淡に過ぎる。
 野中氏が息を引き取る前日、衆院本会議でまたもや暴言が飛び出した。共産党の志位和夫委員長が沖縄で米軍ヘリコプターによるトラブルが相次いでいることに触れると、内閣府の松本文明副大臣は「それで何人死んだんだ」とヤジを飛ばしたのだ。
 県民の生活圏に幾度もヘリが不時着し、小学校では子どものすぐそばに部品が落下しているのだ。それにもかかわらず、この物言いは何なのか。下品というよりも下劣に過ぎる。副大臣の辞任は当然だ。
 野中氏であれば、これをどう評したであろうか。やはり吐き捨てるように批判したことだろう。
 私は、沖縄に米軍基地を固定化させたことにおいては、昔も今も自民党の責任は重たいと考えている。どんな理由があろうとも、どれほどの「思い」があろうとも、政府は、いや、「本土」は、沖縄に犠牲を強いてきた。
 それは野中氏もまた同じである。97年に橋本龍太郎内閣は米軍用地の固定化を可能とする米軍基地に絡む駐留軍用地特別措置法改正を成し遂げたが、その際、改正案の特別委員長を務めたのが野中氏だった。
 だが、衆議院の委員会報告で野中氏は次のように述べている。

「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないようことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをしたい」

 異例の「警告」だった。
 そのときのことを、私の取材で野中氏はこう振り返った。

「こんなに簡単に決まってしまってよいのかという思いがあった。私自身、怖くなったのかもしれない」

 その「怖い」という思いを、いま、自民党をはじめとする与党議員は少しでも抱えているだろうか。

 野中広務・辛淑玉 著 『差別と日本人』(角川oneテーマ21新書)
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