RCサクセション「スロー・バラード」 糸井重里は忌野清志郎にこういう歌を30になっても40になっても50になっても歌って欲しかったのだと思います
日本の一番のロック・シンガーと言えば忌野清志郎さんです。
作詞作曲家、人生の師、ロックとして生きていく人間にとってお手本の人、政治的にも日本のロック・ミュージシャンの中では数少ない意見を言う人でした。
RCサクセションがロックというかパンク、ニュー・ウェイブになった時、業界中に自分で買ったレコードを配りまくり、忌野清志郎さんを一番最初に支えたのは糸井重里さんでした。
そんな糸井さんは、清志郎さんが反原発などの政治にいったことをよく思っていなかったのです。つい最近もそんなことを書いた1999年のコラム〈忌野清志郎は好きなんだけど〉が取り上げられて、“糸井重里許すべからず”という風潮が吹き荒れてました。
糸井重里さんが言いたかったことを僕が要約すると“清志郎、政治になんか逃げるな、もっと家族のことや歳いった自分のことなどを歌にしろ、お前の歌はそういう歌じゃったじゃないか、売れてからはお前は私生活のことを隠しがちだった。ロック研究所みたいな隠れ家なんか作らず、俺はもっと中年ロッカーとしてのお前の悩みを歌にして欲しかった”ということだったんだろうと思うのです。
初期の清志郎さんの歌には確かにそういう歌が多かった。誰にも理解されず、自分一人、もしくは彼女だけ、バンド仲間の本当に小さな世界の歌ばかりでした。
僕はいまだに甲州街道を通る時、いつも清志郎さんのことで頭が一杯になります。国立まで行かなくっても中央線に乗るといつも清志郎さんの亡くなった友達のことを考えるのです。糸井さんはそういう歌を30になっても40になっても50になっても歌って欲しかったんだと思うのです。
SNSには家族のことは投稿しない中年のおっさんじゃなく、学校の先生のことを歌ったように家族のことを普通に歌って欲しかったんでしょう。
それはロックじゃないのということだったんだと思うのです。
ジョン・レノンはレコードが売れなくなって、若いディレクターから「ああしろ、こうしろと言われるのがうっとおしくって、主夫になることを選びました。今までの作品の管理は洋子さんに任せて、隠居生活をすることにしたのです。
で戻ってきた時の歌は本当に中年のオッサンらしい歌でした。というか、一応ファンに自分の経過を知らせるような歌でした。みんな元気、俺は元気にやっているよ、色々あったけどもう一回やってみるよという歌だったのです。
糸井さんは清志郎さんにそういう歌を歌って欲しかったんだと思うのです。政治の難しさじゃなく、自転車が楽しいとか、温泉が気持ちいいとかじゃなく、生きていくことの難しさを歌う歌手になってもらいたかったんだと思うのです。
僕はそんな生きていくことの辛さを歌った名曲は「スロー・バラード」だと思うのです。
彼女と一緒にドライブしていると、車が故障してしまったので、市営グランドの駐車場に止めて、JAFが来るのを待っている間に二人は眠ってしまいます。清志郎さんだけ目が冷めると、彼女はまだ横で眠っている。なんて幸福な時間だと思っていると、彼女の寝言から聞こえてきた名前は自分の名前じゃなく、他の男の名前でした。一緒に同じ夢を見ていたと思ってたのに、僕らの夢は違ってたんだねという歌です。
本当にこんなことがあったのか、どうなのか僕には分からないです。どうやって、こんな美しくも寂しいバラードを清志郎さんは作ったんだろうと思っていた。きっとオーティス・レディングの「ドッグ・オブ・ベイ」のような曲を作ろうと思って、作ったんだろうな、すごいなと思っていたんだけど、先日「スロー・バラード」の元ネタが分かったのです。
それはローリング・ストーンズの「ラブ・イン・ベイン(むなしき愛)」なんだと気づいたのです。
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