松沢呉一のビバノン・ライフ

ラーフェンスブリッュク強制収容所をモデルにしたと思われる—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[5]-(松沢呉一)

労働区と快楽区からなる女子収容所—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[4]」の続きです。

 

 

 

おそらくモデルはラーフェンスブリッュク強制収容所

 

vivanon_sentence本書の後半は、ダニエラの物語と、ハリーの物語が交互に進行していきます。互いに互いのことを考えてはいるのですが、互いにどこにいるのかもわからず、最終章まで接点はありません。

快楽区の話になってから、この小説は手触りが変わります。ハリーの物語はそれまで通りに沈鬱な空気に満ち、その記述はあり得る範囲に留まっているのですが、ダニエラの物語では文章が弾むのです。「弾む」というと楽しそうですが、書いている内容は陰惨の極みなのに、説明をするために文章が饒舌になるのです。

ゲットーの話もハリーの強制収容所の話も、まったくゲットーや収容所のことを知らない英国人が書いたものではなくて、これは経験したユダヤ人の手になるものだろうと思えてました(ハリーのいた強制収容所はニーデルヴァルデンとなっていますが、これは実在しないようです)。

強制収容所では、まだ暗いうちに起床して、早朝に工場に送られていきます。これはおそらく工場の電気を節約するためで、たとえば朝5時に起きて収容所を出て、午前6時から休みなく12時間働かされ、午後9時には消灯といった生活です。

消灯の鐘が鳴ると、すでに疲れて寝ていた収容者の中には朝だと勘違いして慌てて起きて、集合場所に集まるのがいたという記述があります。暗いうちに起きなければならないため、朝か夜かわからず、時計も持てない。遅刻をすると死が待っているため、何も考えずに集合場所に駆けつけるのです。

これは自身で体験したことか、体験者から聞いた話でしょう。まったくの想像ではなかなか書けない。これ以外にも「ああ、ありそう」といったエピソードがしばしば出てきます。労働区でも少しは出てきます。

女子収容所はおそらくラーフェンスブリッュク強制収容所(KZ Ravensbrück)をモデルにしています。イルマ・グレーゼもいたことのある女子強制収容所です。ラーフェンスブリッュクの付属施設として少女収容所であるウッカーマルク強制収容所(KZ Uckermark)もありましたが、こちらはおもにドイツ人の不良少女たちの収容所であり、女子スウィングスも入れられました

痛ましきダニエラ』の労働区の描写としてトロッコが出てくるのですが、以前出したように、ラーフェンスブリッュク強制収容所の記録としてトロッコで働く収容者たちの写真が残っています(上に出したもの)。トロッコくらいどこにでもあったでしょうけど、私にとってラーフェンスブリュックのもっとも印象的な写真です。工場労働もあったのですが、ラーフェンスブリュックでは肉体を酷使する労働が少なくなくて、だから次々と死んでいきました。女子に対してもナチスは容赦ありませんでした。

著者はこの写真から労働区を連想したのだと思えます。

Wikipediaよりラーフェンスブリュックの収容者たち

 

 

訳者はナチスにあんまり詳しくない

 

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しかし、具体的な記述は甘い。私ごときに甘いと言われるくらいに甘い。

著者が収容所を体験していたとしても、自身の体験した収容所のことしか知らない。接点がほとんどないため、女たちの生活についても噂レベルでしかわからなかったはずです。

以下はダニエラやフェラが収容所に着いた時の描写。

 

バラックの門からは、棍棒を持った女達が出て来た。袖の腕章には“女看守”と書いてあり、髪は短く刈こんで、青縞の上衣を着、脚には長靴をはいていた。どの女の顔にも、同じような残忍さがまざまざと浮かんでいた。

 

青縞の上衣」というところから、これはカポだと思われます。訳者はカポという言葉を一度も使っておらず、「ユダヤ人頭」という言葉を使用しているのですが、カポは「看守」とも訳されていて、緑色の三角形(前科者の印)をつけたエリゼという「看守長」も登場します。看守ではなくカポですが、彼女は乗馬ズボンをはいています。カポであれば収容者から没収した服からこういう格好を選ぶこともできたかもしれないですが、乗馬鞭に乗馬服という、ナチス・ポルノ的、SM的意匠はこの頃から完成していたことがわかります。彼女が履いていたとの記述はなかったかもしれないですが、ブーツも「長靴」として登場。ブーツと乗馬服、乗馬鞭があれば完璧。

ドイツ人の看守も「看守」と書かれているので、その描写によって区別するしかないのですが、まったく別の存在ですから、これを区別していないということは訳者はその違いがわかっていなかったのではないか。原文がどうなっているかにもよりましょうが。

 

 

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