シーラッハにならないためにシーラッハに学ぶ—バルドゥール・フォン・シーラッハに見る依存的思考[5](最終回)-(松沢呉一)
「心理分析官のシーラッハ評—バルドゥール・フォン・シーラッハに見る依存的思考[4]」の続きです。
シーラッハとドイツ人、そして日本人
ニュルンベルク裁判における発言を断片的に見ていると、バルドゥール・フォン・シーラッハはもっともまともな人物にも見えてしまうのですが、判断主体としては信頼しきることができないタイプの人だと思います。上に服従する部下としてはいいようにも思えましょうが、昨日は部長の言う通りのことを部下に命じていたのに、今日はそんなことはなかったかのように社長の言う通りのことを命じてくる上司は困りますし、取引先の人間も、言うことが日によって違うと、「だったら最初から社長の意見を聞いて来い」と苛つきます。
おそらくドイツ人にはこういう人が多い。権威主義と言ってもいいのですが、強いものに従う。だから、前から指摘しているように、ドイツ革命でドイツ皇帝が消えて、拠り所になる絶対的権威も消えて、信じるべき対象に選択の余地ができたことがナチスを招来させたのだと思えます。なにしろシーラッハの兄は帝政崩壊で自殺したくらいで。
個人主義の立場では「選択肢は多い方がいい」と思うところですが、全体主義者、権威主義者はそうは思わない。自分で判断しなければならないと何を信じていいのかわからなくなりますから。
一方で、共産主義、個人で言えばマルクス、レーニン、スターリンらに権威を見出す人々がドイツには多かったわけですが、共産主義という権威に依存する人々とヒトラーという権威に依存する人々は、激しく敵対し、殺し合いをしつつも、同類であったことを指摘しているドイツ人の著書を読書週間中に読みました。
その著者は個人主義者で、当然私は大いに共感しました。この本はこのあと紹介する予定です。
その著者も書いていますが、ドイツ人は権威にすがると同時に潮流に合わせる傾向も強い。縦だけでなく、横にも合わせる。共産党に勢いがある時は共産党員になり、ナチスに勢いのある時はナチス党員になり、ナチスが崩壊すると、連合軍に合わせる。同じ人がこういう軌跡を辿っている例が少なくない。
これは周りに合わせる日本人の特性ともかぶります。
※Henriette von Schirach 夫婦だけで写っている写真は珍しいかと
抵抗の条件
そうならないためには、多くの人がナチスに陥らない知恵として挙げているように、「権威や周りに依存して思考すること、判断することを避ける」しかない。
「偉い先生が言っているから」「有名なジャーナリストが言っているから」「周りがみんな言っているから」「ワイドショーでやっていたから」を根拠にしない。「売れた本だから」「評価の高い本だから」「良心的な出版社だから」として、その内容を鵜呑みにしない。
そうしてみた時にヴィクトル・フランクル著『夜と霧』は問題に満ちた本であることに気づけるはずです。気づけない人は自分の思考や判断を信用していない。あるいはそんなことができる訓練をしてきていない(ハナクソほじりながら時間潰しに飛ばし読むのもありですから、その場合は当然気づけなくていいとして、そういう読み方をした本について、外に向けた発言をするのは無責任)。
その人たちが現在ヒトラー批判、ナチス批判ができるのは、その手本があるからであって、手本のないところで、自分で思考して判断することができない人たちです。あるいは気づいたとしても手本がないために公然と批判することをためらうでしょう。誰かが言い出すと、「私もそう思ってました」と堰を切って後追いをする。
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