松沢呉一のビバノン・ライフ

シーラッハに対する心理分析官の工作—バルドゥール・フォン・シーラッハに見る依存的思考[4]-(松沢呉一)

『国際ユダヤ人』+『我が闘争』+ドイツ女子同盟をつなぐ線—バルドゥール・フォン・シーラッハに見る依存的思考[3]」の続きです。

 

 

心理分析官の活躍

 

vivanon_sentence前回見たように、自分の中に信念がなかったとされる一方で、シーラッハは傲慢と評されていることがありますが、おそらくヒトラーのように強烈な存在に同化している時は、そういう態度になるのではなかろうか。ヤクザ映画を見ると急に肩をいからせて街を闊歩し、翌日、刑事映画を見ると急に目つきが鋭くなって悪い者を成敗しようとするような人です。自分がないのです。

誰に追従すべきかを考えて見極めることはできても、手本がないと自分で考えることはできない。金魚の糞は金魚がいないとただの糞であり、移動することもできない。

ニュルンベルク裁判で、被告の心理分析を担当していたグスタフ・ギルバート米大尉は、ゲーリングの影響があまりに大きいことから、食事時間に被告同士で同席させることをやめて、ゲーリングは単独で食事をさせ、シーラッハはシュペーアと同席させるようにしています。

シュペーアの強さと狡猾さが、シーラッハの弱さと無邪気さに影響を与えるかもしれないと思ったからである

この作戦がうまくいって、シーラッハは自己批判をしつつ、ヒトラーを名指しで批判します。心理分析官の見立てが鮮やかに機能したのでした。この辺の表に出ない工作が『ニュルンベルク軍事裁判』の読みどころのひとつです。

ちなみに「デア・シュテルマー」発行人のシュトライヒャーは言動がおかしくて全員に嫌われていたので、その前もあともずっと単独の食事でした。

※Wikipediaより、ゲーリングが切り離される前の、被告たちの食事風景。左奥からアルフレート・ローゼンベルク東方占領地域相(死刑)、その手前がゲーリング(死刑)、右がカール・デーニッツ海軍元帥(懲役10年)、その右がヴァルター・フンク国立銀行総裁(終身刑→病気のため12年で釈放)、右奥がシーラッハ(懲役20年)。極悪食事会。死刑を免れないことを察知していたはずなのに、余裕綽々なゲーリングの様子までが見て取れる写真

 

 

ルドルフ・ヘースになれたかもしれない人

 

vivanon_sentenceシーラッハはニュルンベルク裁判においても自身で考えていたのではなくて、連合軍の検察チームらに従っていただけだったのではないかと疑えます。

権力志向は強くても、自分の頭で思考して、自分の意思で決断することができず、判断できる誰かに付き従うことしかできない人だったのだろうと思います。

もしヒトラーがシーラッハ夫妻を遠ざけることがなく、ナチスドイツが崩壊していなかったなら、あのまま忠実なヒトラーの手下だった可能性もあり、もし強制収容所の担当を命じられていたら、ルドルフ・ヘース同様に、そつなく虐殺をこなしたことが想像できます(副総統とアウシュヴィッツ所長とが同時に出てくる場合は「ヘス」と「ヘース」で区別した方がいいっすね。そもそもHößは「ヘース」としておかしくないのだし)。収容所勤務は妻のヘンリエッテが反対したでしょうけど。

それでもバルドゥール・シーラッハはヒトラーが生きている間に、ヒトラーの忠実な部下であらんとしたところから脱出しつつあったのは、ヘンリエッテの発言がひとつの契機になっています。ヒトラーという手本に、ヘンリエッテという手本が加わったわけです。少なくともこの点において、ヘンリエッテは自分を持ってます。単なるおっちょこちょいだとしても。

してみると、女子教育にヒトラーの姿勢、党の姿勢とは違う独自性があったのも、母親が手本だった、つまりは米国型を手本にしていたのではなかろうか。ここは適切な手本だったと思いますが。

裁判後は一貫して反ナチス、反ヒトラーの姿勢を崩さなかったようで、刑務所の中では英米に沿う手本ばかりだったからでしょう。

Schirach (stehend) im Nürnberger Kriegs­verbrecher­prozess, 1946

 

 

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