松沢呉一のビバノン・ライフ

大正期の奇妙な公開恋愛—井手文子著『自由 それは私自身』を40年ぶりに再読した[2]-(松沢呉一)

お嬢様・平塚らいてうらと野生児・伊藤野枝—井手文子著『自由 それは私自身』を40年ぶりに再読した[1]」の続きです。

 

 

伊藤野枝と木村荘太の危うい関係

 

vivanon_sentence一世紀前からあった炎上商法と「若い燕」という言葉—伊藤野枝と神近市子[付録編 2]」に書いたように、平塚らいてうと奥村博史の関係は、誰もが知ってました。奥村博史がどんな手紙を平塚らいてうに出したのかも知っていました。公開していたからです。公開恋愛。

平塚らいてうと奥村博史だけでなく、あの時代の人々は、もっとも個人的な営為である恋愛を赤裸々に晒して、恋文さえも雑誌に公開し、気持ちを伝える。破綻したら破綻したで、その一部始終を公開する。それは随筆として書かれることもあれば文学作品として公開されることもありました。

この感覚が私には少しもわからないのですが、井手文子著『自由 それは私自身』を読んでいて、「ああ、そういうことか」と思うところがありました。

若い文学者の木村荘太が伊藤野枝に思い入れた「事件」がありました。辻潤という夫がありながら、かつ妊娠中でありながら、伊藤野枝もまんざらではなく、連日一回のみならず、二回も届く恋文に好意的に答え、それに辻潤も目を通し、いわば夫公認の浮気をかじっていた伊藤野枝ですが、「これ以上は危ない」と見た辻潤が介入して、伊藤野枝は辻潤を選び、二人揃ってその経緯を木村荘太に説明し、木村荘太は退きました。

辻潤が途中までは鷹揚に構えていたのは理解できます。夫の余裕であり、若い文学者に対する先輩の余裕でもあったでしょう。なによりそこで嫉妬するのは辻潤の美学に反します。

それよりわからないのは、三者の話し合いで、この顛末を伊藤野枝と木村荘太が互いに作品にするとの合意がなされていることです。

伊藤野枝は腹に子どもがありながらの、いわば「不貞」です。そのまま突き進んでいれば、「貞操不要論を地で行った」と褒め称える人たちも少しはいたかもしれないですが、夫に叱られてやっと自分のやっていることに気づいた鈍感さです。現に妊娠していながら、よその男に心がなびいた伊藤野枝に対しては周辺の人々でも大半は擁護しきれませんでした。

辻潤は若い男に寝取られかけた夫です。木村荘太は当初伊藤野枝が妊娠していることまでは気づいていなかったにせよ、既婚者に言い寄ってフラれた男です。三者ともに決して褒められる立場にはない。それをわざわざ互いに公開しあうことを合意し、その合意通りに公開するってどういうこと?

周りも周りで、伊藤野枝や木村荘太が書いたものを読んで、ああだこうだと論評しました。どいつもこいつも。

 

 

自己愛としての恋愛

 

vivanon_sentenceこの奇妙さを著者は指摘していないのですが、その前に、木村荘太が伊藤野枝と編集部で初めて会ったその日から、熱烈な恋文を送り始めるところに奇異なものを感じています。

 

明治も終り、大正に入ったこの時代のラブというのは、このような形だったのだろうか。世界人類を愛し、そして眼の前の初めて会った女に、愛を臆面もなく告白する——、これはもう私たちの感想を超えた愛としかいいようがないようだ。

 

著者は、この時代の人たちの恋愛に対する拙速とも思える行動について論究し、その本質は自己愛だとしています。

 

 

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