松沢呉一のビバノン・ライフ

日本で最初に肉食を始めた女たちは誰だったか—性風俗にまつわる歴史も現状も正しく伝わらない[上]-(松沢呉一)

 

日本で最初に肉食を取り入れていた女の集団は遊女

 

vivanon_sentenceこのところ、岡満男著『この百年の女たち—ジャーナリズム女性史』をよく取り上げてましが、この本のタイトルに合致するのは第一部で、第二部はより雑多な内容になります。

第二部第3章の「肉食のすすめ 西洋料理の普及」は、西洋料理が一般化して家庭に入り込むようになる過程において実用主義系婦人雜誌が大きな役割を果たしたという内容です。

それまで嫁は自分の祖母・母に教えられた料理と嫁ぎ先の料理を合体させるに留まり、外部から知恵が入ってくることはあまりなかったでしょうが、明治以降、婦人雑誌が力を持つようになって、そこに出ている料理の献立が家庭に入ってきます。和食とともに洋食も。とくに肉食の浸透に婦人雑誌が大いに寄与したでしょう。テレビの時代になると、料理番組で扱った食材が売り切れになるようなものです。

大正時代にもなると、貧困層とまでは言えないまでも、裕福とは言いがたい細井和喜蔵・としを夫婦でも月に一回程度は肉を食べていたように、肉は日本の家庭に入り込んでいて、彼らの住む五反田にも肉屋がありました。

それでも長屋に住むような人たちはなお親子丼さえ食べたことがなかったわけで、食に関しては鷹揚にも思える日本人でも、誰もが肉食をするようになるまでには相当の時間がかかっています。

肉食の浸透は横浜や長崎など、西洋人の多いエリアで始まるわけですが、べらぼうに値段が高く(今で言えば万単位)、調理法もよくわからなかったですから、長らく外食用の食事でした。よっておもに男たちが食うものであり、外食の機会自体がほとんどなかった女が食うものではなかったなかで、最初に食べた女は誰だったのかについて本書では言及していて、長崎・丸山遊廓の女たちだったろうと推測しています。

これには具体的な根拠があって、オランダ人を相手にした丸山遊廓の遊女たちは庶民では手の届かないぜいたくな暮らしぶりで、西洋の食い物、飲み物に親しみ、1797年の丸山遊廓の記録に早くもチョコレートやコーヒー豆が登場。それらが一般に市販されるようになるのは明治に入ってからで、しかも日本人の口には合わず、普及するのに時間がかかっているので、丸山遊廓では世間一般より200年くらい早かったのです。

1890年頃の丸山遊廓とのこと

 

 

時代の先端を行く生活を享受していた遊女たち

 

vivanon_sentence江戸末期から長崎の遊女たちは洋装になり、ベッドを導入し、外国人専用だった松月楼では楼内に洋食部を設置して、料理屋から取り寄せることなく洋食を提供できるようになっていたそうなので、遊女らも相伴に預かったでしょう。

 

 

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