松沢呉一のビバノン・ライフ

「歳をとると涙もろくなるのはなぜか」の答え—公開から6年経って観たアニメ「聲の形」[解答編2]-(松沢呉一)

歳をとると涙もろくなるのはなぜか—公開から6年経って観たアニメ「聲の形」[1]」の続きです。9月にざっと書いてあったものです。時制はその時のままです。

 

 

いつかやればいい

 

vivanon_sentenceそもそも私は「聲の形」は泣くために観ました。なぜこうも歳をとるとともに泣くようになったのか知るために、泣けるものを観たかったのですが、この作品で泣きじゃくったのは、歳をとったからとは関係がないと思います。若い人たちもわんわん泣いてますので。

その点ではあまり適切な選択ではなかったのですが、内容としては、私が考えていたことと重なるところがありました。将也は、自分は生きていてはいけない存在と認識して、不要な自分を17歳で終わらせる決意をしました。死を意識することで、死を意識しないではいられない老人と同じ局面に立ちすくみます。そうすることによって、彼は自分がやらなければならないことを見出します。硝子に会って謝罪をすることです。

彼が硝子に謝罪に行く際に、原作ではこう言ってます。

 

 

気持ちはよくわかります。若いうちは、面倒なことは「いつかやればいい」でやりすごす。ところが、将也は死ぬつもりでしたから、早く片付けないと一生できずに終わります。

このように、歳をとると、「いつか」が近づいてきます。「いつか死ぬ」と思っていた死がそこに見えてきます。

 

 

人生を区切られると起きること

 

vivanon_sentence最近、FWD生命という生命保険会社がこんな動画を出していました。

 

 

「これから書こうと思っていたことを先にやりやがって」とむかつきましたが、こういう話は前々からあります。

自殺を決意した人だけでなく、病気になって、余命宣告された人が「人生に区切りをつけられたことで、むしろ今は充実した時間を過ごしている」なんてことを言ったりして。

もし将也がこの時に死ぬ決意をせず、硝子に会いに行くもことなかったとします。60歳になって、半世紀近く前のことを謝罪しないと後がないとなって、硝子の行方を探しますが、西宮硝子の名前では見つからず。結婚して、姓が変わったのだとすると、硝子という名前だけでは探しようがない。探せないことによって、もう一生謝罪することはできないと諦めるしかない。泣くでしょ。

これは「生きているのか死んでいるのかもわからないNのこと」に書いた私の動揺に重なります。Nにはいつかまた会って話をすることがあるとなんとなく思えていました。だからほっといたのですが、あれから会うことはありませんでした。

あるいは山本夜羽音とはもう会わなくていいと思っていたのに、亡くなった途端にその欠落感に強い衝撃を抱いたのも同じ。そう意識していたわけではないけれど、「いつかまた会う」って思い捨てきってはしなかったのだと思います。その「いつか」はもう二度と来ないとなったら、決裂したことを悔いる。

歳をとると、若いころからずっと溜め込んできた「いつか」がもう来ないって事態を次々に迎えます。

また、今現在リアルタイムに起きることに対しても、結論を出さなければならなくなります。感情の先送りもできなくなるのです。涙が止まらんでしょ。

 

 

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