誰も触れたがらないOUN-Bの貢献—小数民族とロシアの分裂[後編]-(松沢呉一)
「現実味を帯びてきたロシア敗北の波及—小数民族とロシアの分裂[前編]」の続きです。
OUN-Bの幹部ヤロスラヴァ・ステツコ
前回見たように、ロシア国内で、はっきりと独立を求める運動体が存在しているのは10ヶ所に満たないくらいの民族だろうと思います。そのほとんどは人数が少なく(見える範囲では)、国内では表立っての活動はできないため。中心的な活動家は国外に出ています。
それらの運動体は国内では地下活動にならざるを得ず、武器貯蔵庫、石油備蓄基地の爆破や、場合によっては山火事などを仕掛けているかもしれない。
少なくともこれらの地域については、ある個人が「独立したい」と思いついたというほど軽いものではなく、それぞれ活動は古く、人数が少ないとしても実態が伴っている団体だと思われます。
こういった少数民族内反体制勢力を束ねる動きは、第二次世界大戦まで遡ります。
ステパーン・バンデーラのOUN-Bの幹部にヤロスラヴァ・ステツコ(Ярослава Йосипівна Стецько)という人物がいました(スラヴァ・ステツコとも)。女性です。1920年、ポーランドのテルノーピリ(現ウクライナ)生まれ。生まれた時の名前はアンナ・イェヴヘニア・ムジカ (Анна Євгенія Музика)。
1938年からOUN(ウクライナ民族主義者組織)に参加。間もなくOUNはOUN-MとOUN-Bに分裂し、彼女はOUN-Bに参加。1942年から、ウクライナ反乱軍(УПА/Українська повстанська армія)で看護師になります。ウクライナ反乱軍は、ソ連と戦い、ナチスドイツと戦い、ポーランドと戦いました。
OUN-Bの代表はバンデーラ。副代表だったヤロスラフ・ステツク(Стецько Ярослав Семенович)はナチス・ドイツに捕まり、ザクセンハウゼン強制収容所に入れられてましたが、1944年に釈放され、戦後、スラヴァと結婚。夫婦で同じ名前(男女名が違う)なので紛らわしく、夫はヤロスラフ、妻はスラヴァとします。
※Wikipediaよりステヴァ・ステツコ
ロシア奴隷人民会議→反ボリシェヴィキ人民ブロック→自由国家連盟
1943年にヤロスラフを会長として設立された反ボリシェヴィキ人民ブロック(ABN/Антибільшовицький блок народів)を戦後再組織化し、1946年ドイツで結成大会を開きます。
以降、夫婦はこの活動に専念して、アルバニア人、ベラルーシ人、ブルガリア人、アルメニア人、グルジア人、エストニア人、コサック、ラトビア人、リトアニア人、スロバキア人、トルクメン人、ハンガリー人、ウクライナ人、クロアチア人、チェコ人を組織していきます。
これを母体にして1968年、世界反共連盟(WACL/Світова антикомуністична ліга)を結成。60カ国以上の団体が参加。
1986年にヤロスラフが死去、以降、スラヴァがABNの会長となるのですが、1996年に解散しており、2003年にスラヴァは死去。
前回確認した自由国家連盟の原型は、ABNのロシア国内部門だと思われます。そうはっきり書いたものがあるわけではないのですが、ABNの前身と言ってよさそうなのが、ロシア奴隷人民会議(Съезд порабощённых народов России)です。これはロシア革命直後に、キエフで開かれたもので、ロシアの民主主義的連邦制を求める人々によって開催されました。
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