見えた限界、ヘイトスピーチ解消法「5周年」 求められる法整備と被害者救済への道程
編集部註:この記事では、ヘイトスピーチによる具体的被害の記述がございます。フラッシュバックなどの心配がある方は、ご自身の状態に注意してお読みください。
2021年6月、DHC本社前で行われた抗議行動
「ヘイトスピーチ解消法」が衆院本会議で可決、成立したのは2016年5月24日だった。法務委員会での審議から傍聴を続けてきた私は、その瞬間をいまでもはっきりと覚えている。
本会議場の傍聴席で私の横に座っていたのは、在日1世のハルモニ(おばあさん)たちだった。傍聴席では拍手することも声をあげることも禁じられている。議長が同法が可決されたことを告げると、それぞれが黙って手を握り合った。安堵の表情が浮かんでいた。
この瞬間を見届けるため、彼女たちは川崎市(神奈川県)から連れ立って、国会まで足を運んでいた。
同市南部は関東でも有数の在日コリアン集住地域として知られる。幾度もヘイトデモの標的にされてきた。
生活圏に土足で踏み込み、人間の尊厳を奪い取るようなヘイトデモをなんとかしてほしい──地域住民として行政に訴え続けてきた。
こうした悲鳴にも似た訴えが、政治の世界を動かしたのだ。
「一歩前進」。当時、私は週刊誌の記事にそう記した。成立した解消法は不当な差別的言動が許されないことを宣言し、国や自治体に対し、相談態勢の整備や人権教育、啓蒙などの施策を求める内容だ。禁止規定はなく、罰則もない理念法である。実効性を疑う声は当時から少なくなかった。また、保護の対象が「適法に居住する国外出身者とその子孫」としたために、難民申請者などの非正規滞在外国人への差別が容認されてしまうのかのような誤解も生じやすい。そうした指摘を受けて、与野党は「保護対象者以外のものであれば差別的言動も許されるとの理解は誤りである」という付帯決議も可決したが、不安を訴える人々を納得させるものでなかったことは事実だ。
それでも、今世紀初頭から差別団体の活動と、その被害実態を見続けてきた私からすれば「一歩前進」は間違いなかった。
いまでこそ「ヘイトスピーチ」なる言葉は社会に広く定着しているが、日本においてこの言葉が使われるようになってから、さほどの時間は経過していない。新聞各紙の報道を確認しても、2012年までに「ヘイトスピーチ」を用いた記事はほとんどなかった。13年頃に街頭でのヘイトデモが活発化し、同年末に「ヘイトスピーチ」が流行語大賞にノミネートされたことで、人口に膾炙するようになったのだ。
新聞記事(評論や書評ではなく、一般の社会事象を扱う紙面)で初めて「ヘイトスピーチ」の文言が使われたのは、13年3月16日の「朝日新聞」朝刊である。第三社会面、7段で組まれた記事には「『殺せ』連呼するデモ横行、言論の自由か、規制の対象か」と見出しが付いていた。書いたのは同紙社会部(当時)の石橋英昭記者である。同記事では在特会などによるデモの過激化を伝えると同時にそれに抗議する側の動きも報じていた。そのうえで、ヘイトスピーチを「人種や宗教など、ある属性を有する集団に対し、おとしめたり暴力や差別をあおったりする侮辱的表現をおこなうこと」と定義し、ドイツなどでは刑法の「民衆扇動罪」で厳しく取り締まられていると書いた。
現在は仙台総局の編集委員を務める石橋記者は、そのころ、毎週末のようにヘイトデモの現場に駆け付け、熱心に差別問題を追いかけていた。在日コリアンへの取材経験も豊富な石橋記者が記事の中で「ヘイトスピーチ」という言葉を用いたのは必然でもある(ちなみに私は朝日の石橋記者と神奈川新聞の石橋(学)記者の“W石橋“が、新聞におけるヘイトスピーチ報道に果たした役割は大きいと考えて
ちなみに同年8月10日、朝日・石橋記者はそのころ「レイシストをしばき隊」(しばき隊)を名乗っていた野間易通(現C.R.A.C)へのインタビュー記事を掲載した。
興味深い内容なので、一部引用する(聞き手が石橋記者、カギかっこが野間)。
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